は」と聞いて見る。
小夜子はまた口籠《くちごも》る。東京が好いか悪いかは、目の前に、西洋の臭《におい》のする煙草を燻《くゆ》らしている青年の心掛一つできまる問題である。船頭が客人に、あなたは船が好きですかと聞いた時、好きも嫌《きらい》も御前の舵《かじ》の取りよう一つさと答えなければならない場合がある。責任のある船頭にこんな質問を掛けられるほど腹の立つ事はないように、自分の好悪《こうお》を支配する人間から、素知らぬ顔ですき[#「すき」に傍点]かきらい[#「きらい」に傍点]かを尋ねられるのは恨《うら》めしい。小夜子はまた口籠る。小野さんはなぜこう豁達《はきはき》せぬのかと思う。
胴衣《チョッキ》の隠袋《かくし》から時計を出して見る。
「どちらへか御出掛で」と女はすぐ悟った。
「ええ、ちょっと」と旨《うま》い具合に渡し込む。
女はまた口籠る。男は少し焦慮《じれった》くなる。藤尾が待っているだろう。――しばらくは無言である。
「実は父が……」と小夜子はやっとの思で口を切った。
「はあ、何か御用ですか」
「いろいろ買物がしたいんですが……」
「なるほど」
「もし、御閑《おひま》ならば、小野さんにいっしょに行っていただいて勧工場《かんこうば》ででも買って来いと申しましたから」
「はあ、そうですか。そりゃ、残念な事で。ちょうど今から急いで出なければならない所があるもんですからね。――じゃ、こうしましょう。品物の名を聞いて置いて、私《わたし》が帰りに買って晩に持って行きましょう」
「それでは御気の毒で……」
「何構いません」
父の好意は再び水泡《すいほう》に帰した。小夜子は悄然《しょうぜん》として帰る。小野さんは、脱いだ帽子を頭へ載《の》せて手早く表へ出る。――同時に逝《ゆ》く春の舞台は廻る。
紫を辛夷《こぶし》の弁《はなびら》に洗う雨重なりて、花はようやく茶に朽《く》ちかかる椽《えん》に、干《ほ》す髪の帯を隠して、動かせば背に陽炎《かげろう》が立つ。黒きを外に、風が嬲《なぶ》り、日が嬲り、つい今しがたは黄な蝶《ちょう》がひらひらと嬲りに来た。知らぬ顔の藤尾は、内側を向いている。くっきりと肉の締った横顔は、後《うし》ろからさす日の影に、耳を蔽《おお》うて肩に流す鬢《びん》の影に、しっとりとして仄《ほのか》である。千筋《ちすじ》にぎらついて深き菫《すみれ》を一面に浴せる肩を
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