ら」と翻《ひるが》える襦袢《じゅばん》の袖《そで》のほのめくうちを、二本の指に、ここと抑《おさ》えて、軽く抜き取る。
「ハハハハ見えない所でも、旨《うま》く手が届くね。盲目《めくら》にすると疳《かん》の好い按摩《あんま》さんが出来るよ」
「だって慣《な》れてるんですもの」
「えらいもんだ。時に糸公面白い話を聞かせようか」
「なに」
「京都の宿屋の隣に琴《こと》を引く別嬪《べっぴん》がいてね」
「端書《はがき》に書いてあったんでしょう」
「ああ」
「あれなら知っててよ」
「それがさ、世の中には不思議な事があるもんだね。兄さんと甲野さんと嵐山《あらしやま》へ御花見に行ったら、その女に逢ったのさ。逢ったばかりならいいが、甲野さんがその女に見惚《みと》れて茶碗を落してしまってね」
「あら、本当? まあ」
「驚ろいたろう。それから急行の夜汽車で帰る時に、またその女と乗り合せてね」
「嘘《うそ》よ」
「ハハハハとうとう東京までいっしょに来た」
「だって京都の人がそうむやみに東京へくる訳がないじゃありませんか」
「それが何かの因縁《いんねん》だよ」
「人を……」
「まあ御聞きよ。甲野が汽車の中であの女は嫁に行くんだろうか、どうだろうかって、しきりに心配して……」
「もうたくさん」
「たくさんなら廃《よ》そう」
「その女の方《かた》は何とおっしゃるの、名前は」
「名前かい――だってもうたくさんだって云うじゃないか」
「教えたって好いじゃありませんか」
「ハハハハそう真面目《まじめ》にならなくっても好い。実は嘘《うそ》だ。全く兄さんの作り事さ」
「悪《にく》らしい」
 糸子はめでたく笑った。

        十一

 蟻《あり》は甘きに集まり、人は新しきに集まる。文明の民は劇烈なる生存《せいそん》のうちに無聊《ぶりょう》をかこつ。立ちながら三度の食につくの忙《いそがし》きに堪《た》えて、路上に昏睡《こんすい》の病を憂《うれ》う。生を縦横に託して、縦横に死を貪《むさぼ》るは文明の民である。文明の民ほど自己の活動を誇るものなく、文明の民ほど自己の沈滞に苦しむものはない。文明は人の神経を髪剃《かみそり》に削《けず》って、人の精神を擂木《すりこぎ》と鈍くする。刺激に麻痺《まひ》して、しかも刺激に渇《かわ》くものは数《すう》を尽くして新らしき博覧会に集まる。
 狗《いぬ》は香《か》を恋《した
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