くなる。
やさしく咽喉《のど》に滑《す》べり込む長い顎《あご》を奥へ引いて、上眼に小野さんの姿を眺《なが》めた小夜子は、変る眼鏡を見た。変る髭《ひげ》を見た。変る髪の風《ふう》と変る装《よそおい》とを見た。すべての変るものを見た時、心の底でそっと嘆息《ためいき》を吐《つ》いた。ああ。
「京都の花はどうです。もう遅いでしょう」
小野さんは急に話を京都へ移した。病人を慰めるには病気の話をする。好かぬ昔に飛び込んで、ありがたくほどけ掛けた記憶の綯《より》を逆《ぎゃく》に戻すは、詩人の同情である。小夜子は急に小野さんと近づいた。
「もう遅いでしょう。立つ前にちょっと嵐山《あらしやま》へ参りましたがその時がちょうど八分通りでした」
「そのくらいでしょう、嵐山《あらしやま》は早いですから。それは結構でした。どなたとごいっしょに」
花を看《み》る人は星月夜のごとく夥《おびただ》しい。しかしいっしょに行く人は天を限り地を限って父よりほかにない。父でなければ――あとは胸のなかでも名は言わなかった。
「やっぱり阿父《おとっさん》とですか」
「ええ」
「面白かったでしょう」と口の先で云う。小夜子はなぜか情《なさ》けない心持がする。小野さんは出直した。
「嵐山も元とはだいぶ違ったでしょうね」
「ええ。大悲閣《だいひかく》の温泉などは立派に普請《ふしん》が出来て……」
「そうですか」
「小督《こごう》の局《つぼね》の墓がござんしたろう」
「ええ、知っています」
「彼所《あすこ》いらは皆《みんな》掛茶屋ばかりで大変賑やかになりました」
「毎年《まいとし》俗になるばかりですね。昔の方がよほど好い」
近寄れぬと思った小野さんは、夢の中の小野さんとぱたりと合った。小夜子ははっと思う。
「本当に昔の方が……」と云い掛けて、わざと庭を見る。庭には何にもない。
「私がごいっしょに遊びに行った時分は、そんなに雑沓《ざっとう》しませんでしたね」
小野さんはやはり夢の中の小野さんであった。庭を向いた眼は、ちらりと真向《まむき》に返る。金縁の眼鏡《めがね》と薄黒い口髭《くちひげ》がすぐ眸《ひとみ》に映《うつ》る。相手は依然として過去の人ではない。小夜子はゆかしい昔話の緒《いとくち》の、するすると抜け出しそうな咽喉《のど》を抑《おさ》えて、黙って口をつぐんだ。調子づいて角《かど》を曲ろうとする、どっこいと
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