が手に取るように聞える。
家は小野さんが孤堂《こどう》先生のために周旋したに相違ない。しかし極《きわ》めて下卑《げび》ている。小野さんは心のうちに厭《いや》な住居《すまい》だと思った。どうせ家を持つならばと思った。袖垣《そでがき》に辛夷《こぶし》を添わせて、松苔《まつごけ》を葉蘭《はらん》の影に畳む上に、切り立ての手拭《てぬぐい》が春風に揺《ふ》らつくような所に住んで見たい。――藤尾はあの家を貰うとか聞いた。
「御蔭《おかげ》さまで、好い家《うち》が手に入りまして……」と誇る事を知らぬ小夜子は云う。本当に好い家と心得ているなら情《なさ》けない。ある人に奴鰻《やっこうなぎ》を奢《おご》ったら、御蔭様で始めて旨《うま》い鰻を食べましてと礼を云った。奢った男はそれより以来この人を軽蔑《けいべつ》したそうである。
いじらしい[#「いじらしい」に傍点]のと見縊《みくび》るのはある場合において一致する。小野さんはたしかに真面目に礼を云った小夜子を見縊った。しかしそのうちに露いじらしい[#「いじらしい」に傍点]ところがあるとは気がつかなかった。紫が祟《たた》ったからである。祟があると眼玉が三角になる。
「もっと好い家《うち》でないと御気に入るまいと思って、方々尋ねて見たんですが、あいにく恰好《かっこう》なのがなくって……」
と云い懸《か》けると、小夜子は、すぐ、
「いえこれで結構ですわ。父も喜んでおります」と小野さんの言葉を打ち消した。小野さんは吝嗇《けち》な事を云うと思った。小夜子は知らぬ。
細い面《おもて》をちょっと奥へ引いて、上眼に相手の様子を見る。どうしても五年前とは変っている。――眼鏡は金に変っている。久留米絣《くるめがすり》は背広に変っている。五分刈《ごぶがり》は光沢《つや》のある毛に変っている。――髭《ひげ》は一躍して紳士の域に上《のぼ》る。小野さんは、いつの間にやら黒いものを蓄えている。もとの書生ではない。襟《えり》は卸《おろ》し立てである。飾りには留針《ピン》さえ肩を動かすたびに光る。鼠の勝った品《ひん》の好い胴衣《チョッキ》の隠袋《かくし》には――恩賜の時計が這入《はい》っている。この上に金時計をとは、小さき胸の小夜子が夢にだも知るはずがない。小野さんは変っている。
五年の間|一日一夜《ひとひひとよ》も懐《ふところ》に忘られぬ命より明らかな夢の中なる小
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