尽きる頂《いただ》きを見上げた。坂の尽きた頂きから、淡きうちに限りなき春の色を漲《みな》ぎらしたる果《はて》もなき空を見上げた。甲野さんはこの時
「ただ万里の天を見る」
と第二の句を、同じく小声に歌った。
草山を登り詰めて、雑木《ぞうき》の間を四五段|上《のぼ》ると、急に肩から暗くなって、踏む靴の底が、湿《しめ》っぽく思われる。路は山の背《せ》を、西から東へ渡して、たちまちのうちに草を失するとすぐ森に移ったのである。近江《おうみ》の空を深く色どるこの森の、動かねば、その上《かみ》の幹と、その上の枝が、幾重《いくえ》幾里に連《つら》なりて、昔《むか》しながらの翠《みど》りを年ごとに黒く畳むと見える。二百の谷々を埋《うず》め、三百の神輿《みこし》を埋め、三千の悪僧を埋めて、なお余りある葉裏に、三藐三菩提《さまくさぼだい》の仏達を埋め尽くして、森々《しんしん》と半空に聳《そび》ゆるは、伝教大師《でんぎょうだいし》以来の杉である。甲野さんはただ一人この杉の下を通る。
右よりし左よりして、行く人を両手に遮《さえ》ぎる杉の根は、土を穿《うが》ち石を裂いて深く地磐に食い入るのみか、余る力に、跳《は》ね返して暗き道を、二寸の高さに段々と横切っている。登らんとする岩《いわお》の梯子《ていし》に、自然の枕木を敷いて、踏み心地よき幾級の階《かい》を、山霊《さんれい》の賜《たまもの》と甲野さんは息を切らして上《のぼ》って行く。
行く路の杉に逼《せま》って、暗きより洩《も》るるがごとく這《は》い出ずる日影蔓《ひかげかずら》の、足に纏《まつ》わるほどに繁きを越せば、引かれたる蔓《つる》の長きを伝わって、手も届かぬに、朽《く》ちかかる歯朶《しだ》の、風なき昼をふらふらと揺《うご》く。
「ここだ、ここだ」
と宗近君が急に頭の上で天狗《てんぐ》のような声を出す。朽草《くちくさ》の土となるまで積み古《ふ》るしたる上を、踏めば深靴を隠すほどに踏み答えもなきに、甲野さんはようやくの思で、蝙蝠傘《かわほりがさ》を力に、天狗《てんぐ》の座《ざ》まで、登って行く。
「善哉善哉《ぜんざいぜんざい》、われ汝《なんじ》を待つ事ここに久しだ。全体何をぐずぐずしていたのだ」
甲野さんはただああと云ったばかりで、いきなり蝙蝠傘を放《ほう》り出すと、その上へどさりと尻持《しりもち》を突いた。
「また反吐《へど》か、反
前へ
次へ
全244ページ中9ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング