りに上りますなんて誓《ちかい》は立てないのだからその方は大丈夫だろう」と洒落《しゃれ》て見たが心の中《うち》は何となく不愉快であった。時計を出して見ると十一時に近い。これは大変。うちではさぞ婆さんが犬の遠吠《とおぼえ》を苦にしているだろうと思うと、一刻も早く帰りたくなる。「いずれその内婆さんに近づきになりに行くよ」と云う津田君に「御馳走をするから是非来たまえ」と云いながら白山御殿町の下宿を出る。
 我からと惜気《おしげ》もなく咲いた彼岸桜《ひがんざくら》に、いよいよ春が来たなと浮かれ出したのもわずか二三日《にさんち》の間である。今では桜自身さえ早待《はやま》ったと後悔しているだろう。生温《なまぬる》く帽を吹く風に、額際《ひたいぎわ》から煮染《にじ》み出す膏《あぶら》と、粘《ねば》り着く砂埃《すなほこ》りとをいっしょに拭《ぬぐ》い去った一昨日《おととい》の事を思うと、まるで去年のような心持ちがする。それほどきのうから寒くなった。今夜は一層である。冴返《さえかえ》るなどと云う時節でもないに馬鹿馬鹿《ばかばか》しいと外套《がいとう》の襟《えり》を立てて盲唖《もうあ》学校の前から植物園の横をだ
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