ら軒を繞《めぐ》る雨の響に和して、いずくよりともなく何物か地を這《は》うて唸《うな》り廻るような声が聞える。
「ああ、あれで御座います」と婆さんが瞳《ひとみ》を据《す》えて小声で云う。なるほど陰気な声である。今夜はここへ寝る事にきめる。
 余は例のごとく蒲団《ふとん》の中へもぐり込んだがこの唸り声が気になって瞼《まぶた》さえ合わせる事が出来ない。
 普通犬の鳴き声というものは、後も先も鉈刀《なた》で打《ぶ》ち切った薪雑木《まきざつぼう》を長く継《つ》いだ直線的の声である。今聞く唸り声はそんなに簡単な無造作《むぞうさ》の者ではない。声の幅に絶えざる変化があって、曲りが見えて、丸みを帯びている。蝋燭《ろうそく》の灯《ひ》の細きより始まって次第に福やかに広がってまた油の尽きた灯心《とうしん》の花と漸次《ぜんじ》に消えて行く。どこで吠えるか分らぬ。百里の遠きほかから、吹く風に乗せられて微《かす》かに響くと思う間《ま》に、近づけば軒端《のきば》を洩《も》れて、枕に塞《ふさ》ぐ耳にも薄《せま》る。ウウウウと云う音が丸い段落をいくつも連《つら》ねて家の周囲を二三度|繞《めぐ》ると、いつしかその音がワワワワに変化する拍子、疾《と》き風に吹き除《の》けられて遥《はる》か向うに尻尾《しっぽ》はンンンと化して闇の世界に入《い》る。陽気な声を無理に圧迫して陰欝《いんうつ》にしたのがこの遠吠である。躁狂《そうきょう》な響を権柄《けんぺい》ずくで沈痛ならしめているのがこの遠吠である。自由でない。圧制されてやむをえずに出す声であるところが本来の陰欝、天然の沈痛よりも一層|厭《いや》である、聞き苦しい。余は夜着《よぎ》の中に耳の根まで隠した。夜着の中でも聞える。しかも耳を出しているより一層聞き苦しい。また顔を出す。
 しばらくすると遠吠がはたとやむ。この夜半《やはん》の世界から犬の遠吠を引き去ると動いているものは一つもない。吾家《わがや》が海の底へ沈んだと思うくらい静かになる。静まらぬは吾心のみである。吾心のみはこの静かな中から何事かを予期しつつある。されどもその何事なるかは寸分《すんぶん》の観念だにない。性《しょう》の知れぬ者がこの闇の世からちょっと顔を出しはせまいかという掛念《けねん》が猛烈に神経を鼓舞《こぶ》するのみである。今出るか、今出るかと考えている。髪の毛の間へ五本の指を差し込んでむちゃくちゃに掻《か》いて見る。一週間ほど湯に入《はい》って頭を洗わんので指の股《また》が油でニチャニチャする。この静かな世界が変化したら――どうも変化しそうだ。今夜のうち、夜の明けぬうち何かあるに相違ない。この一秒を待って過ごす。この一秒もまた待ちつつ暮らす。何を待っているかと云われては困る。何を待っているか自分に分らんから一層の苦痛である。頭から抜き取った手を顔の前に出して無意味に眺《なが》める。爪の裏が垢《あか》で薄黒く三日月形に見える。同時に胃嚢《いぶくろ》が運動を停止して、雨に逢った鹿皮を天日《てんぴ》で乾《ほ》し堅めたように腹の中が窮窟《きゅうくつ》になる。犬が吠《ほ》えれば善《よ》いと思う。吠えているうちは厭《いや》でも、厭な度合が分る。こう静かになっては、どんな厭な事が背後に起りつつあるのか、知らぬ間《ま》に醸《かも》されつつあるか見当《けんとう》がつかぬ。遠吠なら我慢する。どうか吠えてくれればいいと寝返りを打って仰向《あおむ》けになる。天井に丸くランプの影が幽《かす》かに写る。見るとその丸い影が動いているようだ。いよいよ不思議になって来たと思うと、蒲団《ふとん》の上で脊髄《せきずい》が急にぐにゃりとする。ただ眼だけを見張って、たしかに動いておるか、おらぬかを確める。――確かに動いている。平常《ふだん》から動いているのだが気がつかずに今日《きょう》まで過したのか、または今夜に限って動くのかしらん。――もし今夜だけ動くのなら、ただごとではない。しかしあるいは腹工合《はらぐあい》のせいかも知れまい。今日会社の帰りに池《いけ》の端《はた》の西洋料理屋で海老《えび》のフライを食ったが、ことによるとあれが祟《たた》っているかもしれん。詰らん物を食って、銭《ぜに》をとられて馬鹿馬鹿しい廃《よ》せばよかった。何しろこんな時は気を落ちつけて寝るのが肝心《かんじん》だと堅く眼を閉じて見る。すると虹霓《にじ》を粉《こ》にして振り蒔《ま》くように、眼の前が五色の斑点でちらちらする。これは駄目だと眼を開《あ》くとまたランプの影が気になる。仕方がないからまた横向になって大病人のごとく、じっとして夜の明けるのを待とうと決心した。
 横を向いてふと目に入ったのは、襖《ふすま》の陰に婆さんが叮嚀《ていねい》に畳んで置いた秩父銘仙《ちちぶめいせん》の不断着である。この前四谷に行って露子の
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