――何か御用なの?」露子は人の気も知らずにまた同じ質問で苦しめる。
「ああ何か急に御用が御出来なすったんだって」と御母さんは露子に代理の返事をする。
「そう、何の御用なの」と露子は無邪気に聞く。
「ええ、少しその、用があって近所まで来たのですから」とようやく一方に活路を開く。随分苦しい開き方だと一人で肚《はら》の中で考える。
「それでは、私《わたし》に御用じゃないの」と御母さんは少々不審な顔つきである。
「ええ」
「もう用を済《す》ましていらしったの、随分早いのね」と露子は大《おおい》に感嘆する。
「いえ、まだこれから行くんです」とあまり感嘆されても困るから、ちょっと謙遜《けんそん》して見たが、どっちにしても別に変りはないと思うと、自分で自分の言っている事がいかにも馬鹿らしく聞える。こんな時はなるべく早く帰る方が得策だ、長座《ながざ》をすればするほど失敗するばかりだと、そろそろ、尻を立てかけると
「あなた、顔の色が大変悪いようですがどうかなさりゃしませんか」と御母《おっか》さんが逆捻《さかねじ》を喰わせる。
「髪を御刈りになると好いのね、あんまり髭《ひげ》が生《は》えているから病人らしいのよ。あら頭にはねが上っててよ。大変乱暴に御歩行《おある》きなすったのね」
「日和下駄《ひよりげた》ですもの、よほど上ったでしょう」と背中《せなか》を向いて見せる。御母さんと露子は同時に「おやまあ!」と申し合せたような驚き方をする。
羽織を干して貰って、足駄を借りて奥に寝ている御父《おと》っさんには挨拶もしないで門を出る。うららかな上天気で、しかも日曜である。少々ばつは悪かったようなものの昨夜《ゆうべ》の心配は紅炉上《こうろじょう》の雪と消えて、余が前途には柳、桜の春が簇《むら》がるばかり嬉しい。神楽坂《かぐらざか》まで来て床屋へ這入る。未来の細君の歓心を得んがためだと云われても構わない。実際余は何事によらず露子の好《す》くようにしたいと思っている。
「旦那|髯《ひげ》は残しましょうか」と白服を着た職人が聞く。髯を剃《そ》るといいと露子が云ったのだが全体の髯の事か顋髯《あごひげ》だけかわからない。まあ鼻の下だけは残す事にしようと一人できめる。職人が残しましょうかと念を押すくらいだから、残したって余り目立つほどのものでもないにはきまっている。
「源さん、世の中にゃ随分馬鹿な奴がいるも
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