「ところへもって来て僕の未来の細君が風邪《かぜ》を引いたんだね。ちょうど婆さんの御誂《おあつら》え通りに事件が輻輳《ふくそう》したからたまらない」
「それでも宇野の御嬢さんはまだ四谷にいるんだから心配せんでもよさそうなものだ」
「それを心配するから迷信|婆々《ばばあ》さ、あなたが御移りにならんと御嬢様の御病気がはやく御全快になりませんから是非この月|中《じゅう》に方角のいい所へ御転宅遊ばせと云う訳さ。飛んだ預言者《よげんしゃ》に捕《つら》まって、大迷惑だ」
「移るのもいいかも知れんよ」
「馬鹿あ言ってら、この間越したばかりだね。そんなにたびたび引越しをしたら身代限《しんだいかぎり》をするばかりだ」
「しかし病人は大丈夫かい」
「君まで妙な事を言うぜ。少々伝通院の坊主にかぶれて来たんじゃないか。そんなに人を威嚇《おど》かすもんじゃない」
「威嚇《おど》かすんじゃない、大丈夫かと聞くんだ。これでも君の妻君の身の上を心配したつもりなんだよ」
「大丈夫にきまってるさ。咳嗽《せき》は少し出るがインフルエンザなんだもの」
「インフルエンザ?」と津田君は突然余を驚かすほどな大きな声を出す。今度は本当に威嚇《おど》かされて、無言のまま津田君の顔を見詰める。
「よく注意したまえ」と二句目は低い声で云った。初めの大きな声に反してこの低い声が耳の底をつき抜けて頭の中へしんと浸《し》み込んだような気持がする。なぜだか分らない。細い針は根まで這入《はい》る、低くても透《とお》る声は骨に答えるのであろう。碧瑠璃《へきるり》の大空に瞳《ひとみ》ほどな黒き点をはたと打たれたような心持ちである。消えて失《う》せるか、溶けて流れるか、武庫山《むこやま》卸《おろ》しにならぬとも限らぬ。この瞳ほどな点の運命はこれから津田君の説明で決せられるのである。余は覚えず相馬焼の茶碗を取り上げて冷たき茶を一時《いちじ》にぐっと飲み干した。
「注意せんといかんよ」と津田君は再び同じ事を同じ調子で繰り返す。瞳ほどな点が一段の黒味を増す。しかし流れるとも広がるとも片づかぬ。
「縁喜《えんぎ》でもない、いやに人を驚かせるぜ。ワハハハハハ」と無理に大きな声で笑って見せたが、腑《ふ》の抜けた勢のない声が無意味に響くので、我ながら気がついて中途でぴたりとやめた。やめると同時にこの笑がいよいよ不自然に聞かれたのでやはりしまいまで笑い
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