ぜつ》するという議論があり、またこれを論じた大家もあったのでありますけれども、これは大《おおい》なる間違で、なるほど道徳と文芸は接触しない点もあるけれども、大部分は相連《あいつらな》っている。ただ僅かに倫理と芸術と両立せないで、どちらかを捨てねばならぬ場合がないではありません。例えば私がこの机を推している、何時《いつ》しかこの机と共に落ちたとします。この落ちたという事実に対して、諸君は必ず笑われるに違いない。しかし倫理的に申したならば、人が落ちたというに笑うはずがない、気の毒だという同情があって然《しか》るべきである、殊に私のような招かれて来た者に対する礼儀としても笑うのは倫理的でない事は明《あきらか》である。けれども笑うという事と、気の毒だと思う事と、どちらか捨てねばならぬ場合に、滑稽趣味の上にこれを観賞するは、一種の芸術的の見方であります。けれども私が、脳振盪《のうしんとう》を起して倒れたとすれば、諸君の笑《わらい》は必ず倫理的の同情に変ずるに違いありますまい。こういう風に或程度まで芸術と倫理と相離るる部分はあるけれども、最後または根柢には倫理的認容がなければならぬのであります。従って小説戯曲の材料は七分まで、徳義的批判に訴えて取捨選択《しゅしゃせんたく》せられるのであります。恋を描くにローマン主義の場合では途中で、単に顔を合せたばかりで直《す》ぐに恋情が成立ち、このために盲目になったり、跛足になったりして、煩悶懊悩《はんもんおうのう》するというようなことになる。しかしこんな事実は、実際あり得ない事である。其処《そこ》が感激派の小説で、或《ある》情緒を誇大して、即ち抽象的理想を具体化したようなものを作り上げたのであります、事実からは遠いけれど感激は多いのであります。
 ローマンチックの道徳は何となしに対象物をして大きく偉く感じさせる。ナチュラリズムの道徳は、自己の欠点を暴露させる正直な可愛らしい所がある。
 ローマンチシズムの芸術は情緒的エモーショナルで人をして偉く大きく思わせるし、ナチュラリズムの芸術は理智的で、正直に実際を思わしめる。即ち文学上から見てローマンチシズムは偽《いつわり》を伝えるがまた人の精神に偉大とか崇高《すうこう》とかの現象を認めしめるから、人の精神を未来に結合さする。ナチュラリズムは、材料の取扱い方が正直で、また現在の事実を発揮さすることに
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