偽《いつわり》の点がありました。今の人は正直で自分を偽らずに現わす、こういう風で寛容的精神が発達して来た。しこうして社会もまたこれを容《い》れて来たのであります。昔は一遍《いっぺん》社会から葬《ほうむ》られた者は、容易に恢復する事が出来なかったが、今日では人の噂も七十五日という如く寛大となったのであります。社会の制裁が弛《ゆる》んだというかも知れませんが一方からいいましたならば、事実にそういう欠点のあり得る事を二元的に認めて、これに寛容的の態度を示したのであります。畢竟《ひっきょう》無理がなくなり、概念の束縛がなくなり、事実が現われたのであります。昔スパルタの教育に、狐を隠してその狐が自分の腸《はらわた》をえぐり出しても、なお黙っていたということがあるが、今はそういう痩我慢《やせがまん》はなくなったのである。現今の教育の結果は自分の特点をも露骨に正直に人の前に現わす事を非常なる恥辱《ちじょく》とはしないのであります。これは事実という第一の物が一元的でないという事を予《あらかじ》め許すからである。私の家へよく若い者が訪ねて参りますがその学生が帰って手紙を寄こす。その中にあなたの家を訪ねた時に思いきって這入《はい》ろうかイヤ這入るまいかと暫く躊躇《ちゅうちょ》した、なるべくならお留守であればよい、更に逢わぬといってくれれば可《よ》いと思ったというような露骨な事が書いてある。昔私らの書生の頃には、人を訪問していなければ可いがと思うてもそういう事をその人の前に告白するような正直な実際的な事はしなかったものである。痩我慢をして実は堂々たるものの如く装《よそお》って人の前にもこれを吹聴《ふいちょう》したのである。感激的教育概念に囚《とらわ》れたる薫化《くんか》がこういう不正直な痩我慢的な人間を作り出したのである。
 さて一方文学を攷察《こうさつ》して見まするにこれを大別《たいべつ》してローマンチシズム、ナチュラリズムの二種類とすることが出来る、前者は適当の訳字がないために私が作って浪漫主義として置きましたが、後者のナチュラリズムは自然派と称しております。この両者を前に申述べた教育と対照いたしますと、ローマンチシズムと、昔の徳育即ち概念に囚れたる教育と、特徴を同《おなじゅ》うし、ナチュラリズムと現今の事実を主とする教育と、相|通《かよ》うのであります。以前文芸は道徳を超絶《ちょう
前へ 次へ
全8ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング