のを見兼て「公《こう》、まず這入れ」と云う。加茂《かも》の水の透《す》き徹《とお》るなかに全身を浸《つ》けたときは歯の根が合わぬくらいであった。湯に入《い》って顫えたものは古往今来《こおうこんらい》たくさんあるまいと思う。湯から出たら「公まず眠《ねぶ》れ」と云う。若い坊さんが厚い蒲団《ふとん》を十二畳の部屋に担《かつ》ぎ込《こ》む。「郡内《ぐんない》か」と聞いたら「太織《ふとおり》だ」と答えた。「公のために新調したのだ」と説明がある上は安心して、わがものと心得て、差支《さしつかえ》なしと考えた故、御免《ごめん》を蒙《こうぶ》って寝る。
 寝心地はすこぶる嬉《うれ》しかったが、上に掛ける二枚も、下へ敷く二枚も、ことごとく蒲団なので肩のあたりへ糺の森の風がひやりひやりと吹いて来る。車に寒く、湯に寒く、果《はて》は蒲団にまで寒かったのは心得ぬ。京都では袖《そで》のある夜着《よぎ》はつくらぬものの由を主人から承《うけたまわ》って、京都はよくよく人を寒がらせる所だと思う。
 真夜中頃に、枕頭《まくらもと》の違棚《ちがいだな》に据《す》えてある、四角の紫檀製《したんせい》の枠《わく》に嵌《は》め込《こ》まれた十八世紀の置時計が、チーンと銀椀《ぎんわん》を象牙《ぞうげ》の箸《はし》で打つような音を立てて鳴った。夢のうちにこの響を聞いて、はっと眼を醒《さ》ましたら、時計はとくに鳴《な》りやんだが、頭のなかはまだ鳴っている。しかもその鳴りかたが、しだいに細く、しだいに遠く、しだいに濃《こまや》かに、耳から、耳の奥へ、耳の奥から、脳のなかへ、脳のなかから、心の底へ浸《し》み渡《わた》って、心の底から、心のつながるところで、しかも心の尾《つ》いて行く事のできぬ、遐《はる》かなる国へ抜け出して行くように思われた。この涼しき鈴《りん》の音《ね》が、わが肉体を貫《つらぬ》いて、わが心を透《すか》して無限の幽境に赴《おもむ》くからは、身も魂も氷盤のごとく清く、雪甌《せつおう》のごとく冷《ひやや》かでなくてはならぬ。太織の夜具のなかなる余はいよいよ寒かった。
 暁《あかつき》は高い欅《けやき》の梢《こずえ》に鳴く烏《からす》で再度の夢を破られた。この烏はかあとは鳴かぬ。きゃけえ、くうと曲折して鳴く。単純なる烏ではない。への字烏、くの字烏である。加茂《かも》の明神《みょうじん》がかく鳴かしめて、うき我れをいとど寒がらしめ玉うの神意かも知れぬ。
 かくして太織の蒲団を離れたる余は、顫えつつ窓を開けば、依稀《いき》たる細雨《さいう》は、濃かに糺の森を罩《こ》めて、糺の森はわが家《や》を遶《めぐ》りて、わが家の寂然《せきぜん》たる十二畳は、われを封じて、余は幾重《いくえ》ともなく寒いものに取り囲まれていた。
  春寒《はるさむ》の社頭に鶴を夢みけり




底本:ちくま文庫『夏目漱石全集10』筑摩書房
   1988年7月26日 第1刷発行
親本:筑摩全集類聚版夏目漱石全集 筑摩書房
入力者:柴田卓治
校正者:大野晋
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