る主人も言葉をかける気色《けしき》がない。車夫はただ細長い通りをどこまでもかんかららんと北へ走る。なるほど遠い。遠いほど風に当らねばならぬ。馳けるほど顫《ふる》えねばならぬ。余の膝掛《ひざかけ》と洋傘《ようがさ》とは余が汽車から振り落されたとき居士が拾ってしまった。洋傘は拾われても雨が降らねばいらぬ。この寒いのに膝掛を拾われては東京を出るとき二十二円五十銭を奮発した甲斐《かい》がない。
 子規と来たときはかように寒くはなかった。子規はセル、余はフランネルの制服を着て得意に人通りの多い所を歩行《ある》いた事を記憶している。その時子規はどこからか夏蜜柑《なつみかん》を買うて来て、これを一つ食えと云って余に渡した。余は夏蜜柑《なつみかん》の皮を剥《む》いて、一房《ひとふさ》ごとに裂いては噛《か》み、裂いては噛んで、あてどもなくさまようていると、いつの間《ま》にやら幅一間ぐらいの小路《しょうじ》に出た。この小路の左右に並ぶ家には門並《かどなみ》方一尺ばかりの穴を戸にあけてある。そうしてその穴の中から、もしもしと云う声がする。始めは偶然だと思うていたが行くほどに、穴のあるほどに、申し合せたように、左右の穴からもしもしと云う。知らぬ顔をして行き過ぎると穴から手を出して捕《とら》まえそうに烈《はげ》しい呼び方をする。子規を顧《かえり》みて何だと聞くと妓楼《ぎろう》だと答えた。余は夏蜜柑を食いながら、目分量《めぶんりょう》で一間幅の道路を中央から等分して、その等分した線の上を、綱渡りをする気分で、不偏不党《ふへんふとう》に練《ね》って行った。穴から手を出して制服の尻でも捕まえられては容易ならんと思ったからである。子規は笑っていた。膝掛をとられて顫《ふる》えている今の余を見たら、子規はまた笑うであろう。しかし死んだものは笑いたくても、顫えているものは笑われたくても、相談にはならん。
 かんかららんは長い橋の袂《たもと》を左へ切れて長い橋を一つ渡って、ほのかに見える白い河原《かわら》を越えて、藁葺《わらぶき》とも思われる不揃《ふそろい》な家の間を通り抜けて、梶棒《かじぼう》を横に切ったと思ったら、四抱《よかかえ》か五抱《いつかかえ》もある大樹《たいじゅ》の幾本となく提灯《ちょうちん》の火にうつる鼻先で、ぴたりと留まった。寒い町を通り抜けて、よくよく寒い所へ来たのである。遥《はるか》なる頭の上に見上げる空は、枝のために遮《さえぎ》られて、手の平《ひら》ほどの奥に料峭《りょうしょう》たる星の影がきらりと光を放った時、余は車を降りながら、元来どこへ寝るのだろうと考えた。
「これが加茂《かも》の森《もり》だ」と主人が云う。「加茂の森がわれわれの庭だ」と居士《こじ》が云う。大樹《たいじゅ》を繞《め》ぐって、逆《ぎゃく》に戻ると玄関に灯《ひ》が見える。なるほど家があるなと気がついた。
 玄関に待つ野明《のあき》さんは坊主頭《ぼうずあたま》である。台所から首を出した爺さんも坊主頭である。主人は哲学者である。居士は洪川和尚《こうせんおしょう》の会下《えか》である。そうして家は森の中にある。後《うしろ》は竹藪《たけやぶ》である。顫えながら飛び込んだ客は寒がりである。
 子規と来て、ぜんざいと京都を同じものと思ったのはもう十五六年の昔になる。夏の夜《よ》の月|円《まる》きに乗じて、清水《きよみず》の堂を徘徊《はいかい》して、明《あきら》かならぬ夜《よる》の色をゆかしきもののように、遠く眼《まなこ》を微茫《びぼう》の底に放って、幾点の紅灯《こうとう》に夢のごとく柔《やわら》かなる空想を縦《ほしい》ままに酔《え》わしめたるは、制服の釦《ボタン》の真鍮《しんちゅう》と知りつつも、黄金《こがね》と強《し》いたる時代である。真鍮は真鍮と悟ったとき、われらは制服を捨てて赤裸《まるはだか》のまま世の中へ飛び出した。子規は血を嘔《は》いて新聞屋となる、余は尻を端折《はしょ》って西国《さいこく》へ出奔《しゅっぽん》する。御互の世は御互に物騒《ぶっそう》になった。物騒の極《きょく》子規はとうとう骨になった。その骨も今は腐れつつある。子規の骨が腐れつつある今日《こんにち》に至って、よもや、漱石が教師をやめて新聞屋になろうとは思わなかったろう。漱石が教師をやめて、寒い京都へ遊びに来たと聞いたら、円山《まるやま》へ登った時を思い出しはせぬかと云うだろう。新聞屋になって、糺《ただす》の森《もり》の奥に、哲学者と、禅居士《ぜんこじ》と、若い坊主頭と、古い坊主頭と、いっしょに、ひっそり閑《かん》と暮しておると聞いたら、それはと驚くだろう。やっぱり気取っているんだと冷笑するかも知れぬ。子規は冷笑が好きな男であった。
 若い坊さんが「御湯に御這入《おはい》り」と云う。主人と居士は余が顫《ふる》えている
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