与三郎の――そう、もっともこれは純然たる筋じゃないが、まあ残酷なところがゆすりの原因になっているでしょう。
 生涯《しょうがい》の大勢は構わないその日その日を面白く暮して行けば好いという人があるように、芝居も大体の構造なんか眼中におく必要がない、局部局部を断片的に賞翫《しょうがん》すればよいという説――二宮君のような説ですが、まあその説に同意してみたらどんなものでしょう。
 それでも賞翫はできますが、それを賞翫するに、局部の内容を賞翫するのと、その内容を発現するために用うる役者の芸を賞翫するのと、ほとんど内容を離れた、内容の発現には比較的効能のない役者の芸を賞翫するのと三つあるようですね。
 こうなっても芝居の好な人は、やっぱり内容に重きをおいていないようじゃありませんか。お富が海へ飛び込むところなぞは内容として、私には見るに堪《た》えない。演《や》り方が旨《うま》いとか下手《まず》いとか云う芸術上の鑑賞の余地がないくらい厭《いや》です。中村不折が隣りにいて、あのとき芸術上の批評を加えていたのを聞いて実に意外に思いました。ところが芝居の好きな人には私の厭《いや》だと思うところはいっこう応《こた》えないように見えますがどうでしょう。
 光秀が妹から刀を受取って一人で引込むところは、内容として不都合がない。だから芸術上の上手下手を云う余地があったのです。あすこはあなたがたも旨いと云った。私も旨いと思います。ただし、あすこの芸術は内容を発現するための芸術でしょう。
 第三の、内容とは比較的関係のない芸術になると、妙ですな。内容を賞翫して好いんだか、芸術を賞翫して好いんだか分りません。十段目に、初菊が、あんまり聞えぬ光よし様とか何とかいうところで品《しな》をしていると、私の隣の枡《ます》にいた御婆さんが誠実に泣いてたには感心しました。あのくらい単純な内容で泣ける人が今の世にもあるかと思ったらありがたかった。我々はもっとずっと、擦《す》れてるから始末が悪い。と云ってあすこがつまらないんじゃない。かなり面白かった。けれどもその面白味はあの初菊という女の胴や手が蛇《へび》のように三味線につれて、ひなひなするから面白かったんで、人情の発現として泣く了簡《りょうけん》は毛頭《もうとう》なかったんです。この点において私と芝居通の諸君と一致しているかどうだか伺います。御婆さんに賛成なさる
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