き出したように、ぼうっといつの間《ま》にやら薄明るくなって来た。始めは、ただ闇の段取《だんどり》が違うだけの事と思っていると、それがしだいしだいに暗がりを離れてくる。たしかに柔《やわら》かな光を受けておるなと意識できるぐらいになった時、自分は霧《きり》のような光線の奥に、不透明な色を見出《みいだ》す事ができた。その色は黄と紫《むらさき》と藍《あい》であった。やがて、そのうちの黄と紫が動き出した。自分は両眼の視神経を疲れるまで緊張して、この動くものを瞬《またた》きもせず凝視《みつめ》ていた。靄《もや》は眼の底からたちまち晴れ渡った。遠くの向うに、明かな日光の暖かに照り輝《かがや》く海を控《ひか》えて、黄《き》な上衣《うわぎ》を着た美しい男と、紫の袖《そで》を長く牽《ひ》いた美しい女が、青草の上に、判然《はっきり》あらわれて来た。女が橄欖《かんらん》の樹《き》の下に据《す》えてある大理石の長椅子に腰をかけた時に、男は椅子の横手に立って、上から女を見下《みおろ》した。その時南から吹く温かい風に誘われて、閑和《のどか》な楽《がく》の音《ね》が、細く長く、遠くの波の上を渡って来た。
 穴の上も、穴の下も、一度にざわつき出した。彼らは闇の中に消えたのではなかった。闇の中で暖かな希臘《ギリシャ》を夢みていたのである。

     印象

 表へ出ると、広い通りが真直《まっすぐ》に家の前を貫《つらぬ》いている。試みにその中央に立って見廻して見たら、眼に入《い》る家はことごとく四階で、またことごとく同じ色であった。隣も向うも区別のつきかねるくらい似寄った構造なので、今自分が出て来たのははたしてどの家であるか、二三間行過ぎて、後戻りをすると、もう分らない。不思議な町である。
 昨夕《ゆうべ》は汽車の音に包《くる》まって寝た。十時過ぎには、馬の蹄《ひづめ》と鈴の響に送られて、暗いなかを夢のように馳《か》けた。その時美しい灯《ともしび》の影が、点々として何百となく眸《ひとみ》の上を往来《おうらい》した。そのほかには何も見なかった。見るのは今が始めてである。
 二三度この不思議な町を立ちながら、見上《みあげ》、見下《みおろ》した後《のち》、ついに左へ向いて、一町ほど来ると、四ツ角へ出た。よく覚えをしておいて、右へ曲ったら、今度は前よりも広い往来へ出た。その往来の中を馬車が幾輛《いくりょう》となく通る。いずれも屋根に人を載せている。その馬車の色が赤であったり黄であったり、青や茶や紺《こん》であったり、仕切《しき》りなしに自分の横を追い越して向うへ行く。遠くの方を透《す》かして見ると、どこまで五色が続いているのか分らない。ふり返れば、五色の雲のように動いて来る。どこからどこへ人を載せて行くものかしらんと立ち止まって考えていると、後《うしろ》から背の高い人が追《お》い被《かぶ》さるように、肩のあたりを押した。避《よ》けようとする右にも背の高い人がいた。左りにもいた。肩を押した後の人は、そのまた後の人から肩を押されている。そうしてみんな黙っている。そうして自然のうちに前へ動いて行く。
 自分はこの時始めて、人の海に溺《おぼ》れた事を自覚した。この海はどこまで広がっているか分らない。しかし広い割には極めて静かな海である。ただ出る事ができない。右を向いても痞《つか》えている。左を見ても塞《ふさ》がっている。後をふり返ってもいっぱいである。それで静かに前の方へ動いて行く。ただ一筋の運命よりほかに、自分を支配するものがないかのごとく、幾万の黒い頭が申し合せたように歩調を揃《そろ》えて一歩ずつ前へ進んで行く。
 自分は歩きながら、今出て来た家の事を想《おも》い浮べた。一様の四階建の、一様の色の、不思議な町は、何でも遠くにあるらしい。どこをどう曲って、どこをどう歩いたら帰れるか、ほとんど覚束《おぼつか》ない気がする。よし帰れても、自分の家は見出《みいだ》せそうもない。その家は昨夕暗い中に暗く立っていた。
 自分は心細く考えながら、背の高い群集に押されて、仕方なしに大通を二つ三つ曲がった。曲るたんびに、昨夕の暗い家とは反対の方角に遠ざかって行くような心持がした。そうして眼の疲れるほど人間のたくさんいるなかに、云うべからざる孤独を感じた。すると、だらだら坂へ出た。ここは大きな道路が五つ六つ落ち合う広場のように思われた。今まで一筋に動いて来た波は、坂の下で、いろいろな方角から寄せるのと集まって、静かに廻転し始めた。
 坂の下には、大きな石刻《いしぼり》の獅子《しし》がある。全身灰色をしておった。尾の細い割に、鬣《たてがみ》に渦《うず》を捲《ま》いた深い頭は四斗樽《しとだる》ほどもあった。前足を揃《そろ》えて、波を打つ群集の中に眠っていた。獅子は二ついた。下は舗石《しきいし》で敷
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