の上まで弾《は》ね返《かえ》るように動いた。続いて長いものが叔父さんの手を離れた。それが暗い雨のふりしきる中に、重たい縄《なわ》のような曲線を描いて、向うの土手の上に落ちた。と思うと、草の中からむくりと鎌首《かまくび》を一尺ばかり持上げた。そうして持上げたまま屹《きっ》と二人を見た。
「覚えていろ」
声はたしかに叔父さんの声であった。同時に鎌首《かまくび》は草の中に消えた。叔父さんは蒼《あお》い顔をして、蛇《へび》を投げた所を見ている。
「叔父さん、今、覚えていろと云ったのはあなたですか」
叔父さんはようやくこっちを向いた。そうして低い声で、誰だかよく分らないと答えた。今でも叔父にこの話をするたびに、誰だかよく分らないと答えては妙な顔をする。
泥棒
寝ようと思って次の間へ出ると、炬燵《こたつ》の臭《におい》がぷんとした。厠《かわや》の帰りに、火が強過ぎるようだから、気をつけなくてはいけないと妻《さい》に注意して、自分の部屋へ引取った。もう十一時を過ぎている。床の中の夢は常のごとく安らかであった。寒い割に風も吹かず、半鐘《はんしょう》の音も耳に応《こた》えなかった。熟睡が時の世界を盛《も》り潰《つぶ》したように正体を失った。
すると忽然《こつぜん》として、女の泣声で眼が覚《さ》めた。聞けばもよと云う下女の声である。この下女は驚いて狼狽《うろた》えるといつでも泣声を出す。この間|家《うち》の赤ん坊を湯に入れた時、赤ん坊が湯気《ゆけ》に上《あが》って、引きつけたといって五分ばかり泣声を出した。自分がこの下女の異様な声を聞いたのは、それが始めてである。啜《すす》り上《あ》げるようにして早口に物を云う。訴えるような、口説《くど》くような、詫《わび》を入れるような、情人《じょうじん》の死を悲しむような――とうてい普通の驚愕《きょうがく》の場合に出る、鋭くって短い感投詞《かんとうし》の調子ではない。
自分は今云う通りこの異様の声で、眼が覚めた。声はたしかに妻《さい》の寝ている、次の部屋から出る。同時に襖《ふすま》を洩《も》れて赤い火がさっと暗い書斎に射した。今開ける瞼《まぶた》の裏に、この光が届くや否や自分は火事だと合点《がってん》して飛び起きた。そうして、突然《いきなり》隔《へだ》ての唐紙《からかみ》をがらりと開けた。
その時自分は顛覆返《ひっくりかえ
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