つ》何《ど》んな事があったかの記憶を心のうちに呼び起すでしょう、しかも貴方の表現したような特別な観察点に立って、自分がいまだかつて経験しなかったような記憶を新らしくするでしょう。此二つの記憶が経となり緯となって、ただでは得られない愉快が頭の中に満ちて来るかも知れません。忙がしい我々は毎日々々|蛇《へび》が衣を脱ぐように、我々の過去を未練なく脱いで、ひたすら先へ先へと進むようですが、たまには落ち付いて今迄通って来た途《みち》を振り向きたくなるものです。其時|茫然《ぼうぜん》と考えている丈《だけ》では、眼に映る過去は、映らない時と大差なき位に、貧弱なものであります。あなたの太い線、大きな手、変な顔、すべてあなたに特有な形で描かれた簡単な画は、其時我々に過去は斯《こ》んなものだと教えて呉《く》れるのです。過去はこれ程馬鹿気て、愉快で、変てこに滑稽《こっけい》に通過されたのだと教えて呉《く》れるのです。我々は落付いた眼に笑を湛《たた》えて又|齷齪《あくせく》と先へ進む事が出来ます。あなたの観察に皮肉はありますが、苦々《にがにが》しい所はないのですから。
もう一つあなたの特色を挙《あ》げて見ると、普通の画家は画になる所さえ見付ければ、それですぐ筆を執《と》ります。あなたは左右《そう》でないようです。あなたの画には必ず解題が付いています。そうして其解題の文章が大変器用で面白く書けています。あるものになると、画よりも文章の方が優《まさ》っているように思われるのさえあります。あなたは東京の下町で育ったから、斯《こ》ういう風に文章が軽く書きこなされるのかも知れませんが、いくら文章を書く腕があっても、画が其腕を抑《おさ》えて働らかせないような性質のものならそれ迄《まで》です。面白い絵説の書ける筈《はず》はありません。だから貴方は画題を選ぶ眼で、同時に文章になる画を描いたと云わなければなりません。その点になると、今の日本の漫画家にあなたのようなものは一人もないと云っても誇張ではありますまい。私は此絵と文とをうまく調和させる力を一層拡大して、大正の風俗とか東京名所とかいう大きな書物を、あなたに書いて頂きたいような気がするのです。
六月十五日
[#地付き]夏目金之助
岡本一平様
底本:「筑摩全集類聚版 夏目漱石全集 10」筑摩書房
1972(昭和47)年1月10日第1
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