ました」と女が云う。三つの煙りが蓋《ふた》の上に塊《かた》まって茶色の球《たま》が出来ると思うと、雨を帯びた風が颯《さっ》と来て吹き散らす。塊まらぬ間《うち》に吹かるるときには三つの煙りが三つの輪を描《えが》いて、黒塗に蒔絵《まきえ》を散らした筒の周囲《まわり》を遶《めぐ》る。あるものは緩《ゆる》く、あるものは疾《と》く遶る。またある時は輪さえ描く隙《ひま》なきに乱れてしまう。「荼毘《だび》だ、荼毘だ」と丸顔の男は急に焼場の光景を思い出す。「蚊《か》の世界も楽じゃなかろ」と女は人間を蚊に比較する。元へ戻りかけた話しも蚊遣火と共に吹き散らされてしもうた。話しかけた男は別に語りつづけようともせぬ。世の中はすべてこれだと疾《と》うから知っている。
「御夢の物語りは」とややありて女が聞く。男は傍《かたわ》らにある羊皮《ようひ》の表紙に朱で書名を入れた詩集をとりあげて膝の上に置く。読みさした所に象牙《ぞうげ》を薄く削《けず》った紙《かみ》小刀《ナイフ》が挟《はさ》んである。巻《かん》に余って長く外へ食《は》み出した所だけは細かい汗をかいている。指の尖《さき》で触《さわ》ると、ぬらりとあやしい字が出来る。「こう湿気《しけ》てはたまらん」と眉《まゆ》をひそめる。女も「じめじめする事」と片手に袂《たもと》の先を握って見て、「香《こう》でも焚《た》きましょか」と立つ。夢の話しはまた延びる。
 宣徳《せんとく》の香炉《こうろ》に紫檀《したん》の蓋があって、紫檀の蓋の真中には猿を彫《きざ》んだ青玉《せいぎょく》のつまみ手がついている。女の手がこの蓋にかかったとき「あら蜘蛛《くも》が」と云うて長い袖《そで》が横に靡《なび》く、二人の男は共に床《とこ》の方を見る。香炉に隣る白磁《はくじ》の瓶《へい》には蓮《はす》の花がさしてある。昨日《きのう》の雨を蓑《みの》着て剪《き》りし人の情《なさ》けを床《とこ》に眺《なが》むる莟《つぼみ》は一輪、巻葉は二つ。その葉を去る三寸ばかりの上に、天井から白金《しろがね》の糸を長く引いて一匹の蜘蛛《くも》が――すこぶる雅《が》だ。
「蓮の葉に蜘蛛|下《くだ》りけり香を焚《た》く」と吟じながら女一度に数弁《すうべん》を攫《つか》んで香炉の裏《うち》になげ込む。「※[#「虫+(くさかんむり/嘯のつくり)」、第4水準2−87−94]蛸《しょうしょう》懸《かかって》不
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