またからからと笑う。女の頬には乳色の底から捕えがたき笑の渦《うず》が浮き上って、瞼《まぶた》にはさっと薄き紅《くれない》を溶《と》く。
「縫えばどんな色で」と髯あるは真面目《まじめ》にきく。
「絹買えば白き絹、糸買えば銀の糸、金の糸、消えなんとする虹《にじ》の糸、夜と昼との界《さかい》なる夕暮の糸、恋の色、恨《うら》みの色は無論ありましょ」と女は眼をあげて床柱《とこばしら》の方を見る。愁《うれい》を溶《と》いて錬《ね》り上げし珠《たま》の、烈《はげ》しき火には堪《た》えぬほどに涼しい。愁の色は昔《むか》しから黒である。
隣へ通う路次《ろじ》を境に植え付けたる四五本の檜《ひのき》に雲を呼んで、今やんだ五月雨《さみだれ》がまたふり出す。丸顔の人はいつか布団《ふとん》を捨てて椽《えん》より両足をぶら下げている。「あの木立《こだち》は枝を卸《おろ》した事がないと見える。梅雨《つゆ》もだいぶ続いた。よう飽きもせずに降るの」と独《ひと》り言《ごと》のように言いながら、ふと思い出した体《てい》にて、吾《わ》が膝頭《ひざがしら》を丁々《ちょうちょう》と平手をたてに切って敲《たた》く。「脚気《かっけ》かな、脚気かな」
残る二人は夢の詩か、詩の夢か、ちょと解しがたき話しの緒《いとぐち》をたぐる。
「女の夢は男の夢よりも美くしかろ」と男が云えば「せめて夢にでも美くしき国へ行かねば」とこの世は汚《けが》れたりと云える顔つきである。「世の中が古くなって、よごれたか」と聞けば「よごれました」と※[#「糸+丸」、第3水準1−89−90]扇《がんせん》に軽《かろ》く玉肌《ぎょっき》を吹く。「古き壺《つぼ》には古き酒があるはず、味《あじわ》いたまえ」と男も鵞鳥《がちょう》の翼《はね》を畳《たた》んで紫檀《したん》の柄《え》をつけたる羽団扇《はうちわ》で膝のあたりを払う。「古き世に酔えるものなら嬉《うれ》しかろ」と女はどこまでもすねた体である。
この時「脚気かな、脚気かな」としきりにわが足を玩《もてあそ》べる人、急に膝頭をうつ手を挙《あ》げて、叱《しっ》と二人を制する。三人の声が一度に途切れる間をククーと鋭どき鳥が、檜の上枝《うわえだ》を掠《かす》めて裏の禅寺の方へ抜ける。ククー。
「あの声がほととぎすか」と羽団扇を棄《す》ててこれも椽側《えんがわ》へ這《は》い出す。見上げる軒端《のきば》を斜め
前へ
次へ
全9ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング