ケーベル先生の告別
夏目漱石

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)今日《きょう》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)汽船は半分|荷物船《にもつぶね》だから
−−

 ケーベル先生は今日《きょう》(八月十二日)日本を去るはずになっている。しかし先生はもう二、三日まえから東京にはいないだろう。先生は虚儀虚礼をきらう念の強い人である。二十年前大学の招聘《しょうへい》に応じてドイツを立つ時にも、先生の気性を知っている友人は一人《ひとり》も停車場《ステーション》へ送りに来なかったという話である。先生は影のごとく静かに日本へ来て、また影のごとくこっそり日本を去る気らしい。
 静かな先生は東京で三度居を移した。先生の知っている所はおそらくこの三軒の家と、そこから学校へ通う道路くらいなものだろう。かつて先生に散歩をするかと聞いたら、先生は散歩をするところがないから、しないと答えた。先生の意見によると、町は散歩すべきものでないのである。
 こういう先生が日本という国についてなにも知ろうはずがない。また知ろうとする好奇心をもっている道理もない。私《わたし》が早
次へ
全4ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング