カーライル博物館
夏目漱石
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)釜形《かまがた》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)五階|立《だて》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「けものへん+廣」第4水準 2−80−55]
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公園の片隅に通りがかりの人を相手に演説をしている者がある。向うから来た釜形《かまがた》の尖《とが》った帽子を被《か》ずいて古ぼけた外套《がいとう》を猫背《ねこぜ》に着た爺《じい》さんがそこへ歩みを佇《とど》めて演説者を見る。演説者はぴたりと演説をやめてつかつかとこの村夫子《そんぷうし》のたたずめる前に出て来る。二人の視線がひたと行き当る。演説者は濁りたる田舎調子《いなかぢょうし》にて御前はカーライルじゃないかと問う。いかにもわしはカーライルじゃと村夫子が答える。チェルシーの哲人《セージ》と人が言囃《いいはや》すのは御前の事かと問う。なるほど世間ではわしの事をチェルシーの哲人《セージ》と云うようじゃ。セージと云うは鳥の名だに、人間のセージとは珍らしいなと演説者はからからと笑う。村夫子はなるほど猫も杓子《しゃくし》も同じ人間じゃのにことさらに哲人《セージ》などと異名《いみょう》をつけるのは、あれは鳥じゃと渾名《あだな》すると同じようなものだのう。人間はやはり当り前の人間で善《よ》かりそうなものだのに。と答えてこれもからからと笑う。
余は晩餐前に公園を散歩するたびに川縁《かわべり》の椅子《いす》に腰を卸して向側を眺《なが》める。倫敦《ロンドン》に固有なる濃霧はことに岸辺に多い。余が桜の杖に頤《あご》を支《ささ》えて真正面を見ていると、遥《はる》かに対岸の往来《おうらい》を這《は》い廻る霧の影は次第に濃くなって五階|立《だて》の町続きの下からぜんぜんこの揺曳《たなび》くものの裏《うち》に薄れ去って来る。しまいには遠き未来の世を眼前に引き出《いだ》したるように窈然《ようぜん》たる空の中《うち》にとりとめのつかぬ鳶色《とびいろ》の影が残る。その時この鳶色の奥にぽたりぽたりと鈍き光りが滴《したた》るように見え初める。三層四層五層|共《とも》に瓦斯《ガス》を点じたのである。余は桜の杖をついて下宿の方へ帰る。帰る時必ずカーライルと演説使いの話しを思いだす。かの溟濛《めいもう》たる瓦斯の霧に混ずる所が往時この村夫子《そんぷうし》の住んでおったチェルシーなのである。
カーライルはおらぬ。演説者も死んだであろう。しかしチェルシーは以前のごとく存在している。否《いな》彼の多年住み古した家屋敷さえ今なお儼然《げんぜん》と保存せられてある。千七百八年チェイン・ロウが出来てより以来幾多の主人を迎え幾多の主人を送ったかは知らぬがとにかく今日《こんにち》まで昔のままで残っている。カーライルの歿後は有志家の発起《ほっき》で彼の生前使用したる器物調度図書典籍を蒐《あつ》めてこれを各室に按排《あんばい》し好事《こうず》のものにはいつでも縦覧《じゅうらん》せしむる便宜《べんぎ》さえ謀《はか》られた。
文学者でチェルシーに縁故のあるものを挙《あ》げると昔《むか》しはトマス・モア、下《くだ》ってスモレット、なお下ってカーライルと同時代にはリ・ハントなどがもっとも著名である。ハントの家はカーライルの直《じき》近傍で、現にカーライルがこの家《いえ》に引き移った晩尋ねて来たという事がカーライルの記録に書いてある。またハントがカーライルの細君にシェレーの塑像《そぞう》を贈ったという事も知れている。このほかにエリオットのおった家とロセッチの住んだ邸《やしき》がすぐ傍《そば》の川端に向いた通りにある。しかしこれらは皆すでに代《だい》がかわって現に人が這入《はい》っているから見物は出来ぬ。ただカーライルの旧廬《きゅうろ》のみは六ペンスを払えば何人《なんびと》でもまた何時《なんどき》でも随意に観覧が出来る。
チェイン・ローは河岸端《かしっぱた》の往来を南に折れる小路でカーライルの家はその右側の中頃に在《あ》る。番地は二十四番地だ。
毎日のように川を隔《へだ》てて霧の中にチェルシーを眺《なが》めた余はある朝ついに橋を渡ってその有名なる庵《いお》りを叩《たた》いた。
庵りというと物寂《ものさ》びた感じがある。少なくとも瀟洒《しょうしゃ》とか風流とかいう念と伴《ともな》う。しかしカーライルの庵《いおり》はそんな脂《やに》っこい華奢《きゃしゃ》なものではない。往来《おうらい》から直《ただ》ちに戸が敲《たた》けるほどの道傍《みちばた》に建てられた四階|造《づくり》の真四角な家である。
出張った所も引き込んだ所も
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