なったから御前は御前で勝手に口上を述べなさい、わしはわしで自由に見物するからという態度をとった。婆さんは人が聞こうが聞くまいが口上だけは必ず述べますという風で別段|厭《あ》きた景色《けしき》もなく怠《おこた》る様子もなく何年何月何日をやっている。
 余は東側の窓から首を出してちょっと近所を見渡した。眼の下に十坪ほどの庭がある。右も左もまた向うも石の高塀《たかかべ》で仕切られてその形はやはり四角である。四角はどこまでもこの家の附属物かと思う。カーライルの顔は決して四角ではなかった。彼はむしろ懸崖《けんがい》の中途が陥落して草原の上に伏しかかったような容貌《ようぼう》であった。細君は上出来の辣韮《らっきょう》のように見受けらるる。今余の案内をしている婆さんはあんぱんのごとく丸《ま》るい。余が婆さんの顔を見てなるほど丸いなと思うとき婆さんはまた何年何月何日を誦《じゅ》し出した。余は再び窓から首を出した。
 カーライル云う。裏の窓より見渡せば見ゆるものは茂る葉の木株、碧《みど》りなる野原、及びその間に点綴《てんてつ》する勾配《こうばい》の急なる赤き屋根のみ。西風の吹くこの頃の眺《なが》めはいと晴れやかに心地よし。
 余は茂る葉を見ようと思い、青き野を眺《なが》めようと思うて実は裏の窓から首を出したのである。首はすでに二|返《へん》ばかり出したが青いものも何にも見えぬ。右に家が見える。左《ひだ》りに家が見える。向《むこう》にも家が見える。その上には鉛色《なまりいろ》の空が一面に胃病やみのように不精無精《ふしょうぶしょう》に垂れかかっているのみである。余は首を縮めて窓より中へ引き込めた。案内者はまだ何年何月何日の続きを朗らかに読誦《どくじゅ》している。
 カーライルまた云う倫敦《ロンドン》の方《かた》を見れば眼に入るものはウェストミンスター・アベーとセント・ポールズの高塔の頂《いただ》きのみ。その他|幻《まぼろし》のごとき殿宇《でんう》は煤《すす》を含む雲の影の去るに任せて隠見す。
「倫敦の方」とはすでに時代後れの話である。今日《こんにち》チェルシーに来て倫敦の方を見るのは家の中《うち》に坐って家の方《かた》を見ると同じ理窟《りくつ》で、自分の眼で自分の見当《けんとう》を眺めると云うのと大した差違はない。しかしカーライルは自《みずか》ら倫敦に住んでいるとは思わなかったのである。彼は田舎《いなか》に閑居して都の中央にある大伽藍《だいがらん》を遥《はる》かに眺めたつもりであった。余は三度《みた》び首を出した。そして彼のいわゆる「倫敦の方」へと視線を延ばした。しかしウェストミンスターも見えぬ、セント・ポールズも見えぬ。数万の家、数十万の人、数百万の物音は余と堂宇との間に立ちつつある、漾《ただよ》いつつある、動きつつある。千八百三十四年のチェルシーと今日のチェルシーとはまるで別物である。余はまた首を引き込めた。婆さんは黙然《もくねん》として余の背後に佇立《ちょりつ》している。
 三階に上《あが》る。部屋の隅を見ると冷やかにカーライルの寝台《ねだい》が横《よこた》わっている。青き戸帳《とばり》が物静かに垂れて空《むな》しき臥床《ふしど》の裡《うち》は寂然《せきぜん》として薄暗い。木は何の木か知らぬが細工《さいく》はただ無器用で素朴であるというほかに何らの特色もない。その上に身を横えた人の身の上も思い合わさるる。傍《かたわ》らには彼が平生使用した風呂桶《ふろおけ》が九鼎《きゅうてい》のごとく尊げに置かれてある。
 風呂桶とはいうもののバケツの大きいものに過ぎぬ。彼がこの大鍋《おおなべ》の中で倫敦の煤《すす》を洗い落したかと思うとますますその人となりが偲《しの》ばるる。ふと首を上げると壁の上に彼が往生《おうじょう》した時に取ったという漆喰《しっくい》製《せい》の面型《マスク》がある。この顔だなと思う。この炬燵《こたつ》櫓《やぐら》ぐらいの高さの風呂に入《はい》ってこの質素な寝台の上に寝て四十年間やかましい小言《こごと》を吐き続けに吐いた顔はこれだなと思う。婆さんの淀《よど》みなき口上が電話口で横浜の人の挨拶を聞くように聞える。
 宜《よろ》しければ上りましょうと婆さんがいう。余はすでに倫敦の塵《ちり》と音を遥《はる》かの下界に残して五重の塔の天辺《てっぺん》に独坐するような気分がしているのに耳の元で「上りましょう」という催促を受けたから、まだ上があるのかなと不思議に思った。さあ上ろうと同意する。上れば上るほど怪しい心持が起りそうであるから。
 四階へ来た時は縹渺《ひょうびょう》として何事とも知らず嬉しかった。嬉しいというよりはどことなく妙であった。ここは屋根裏である。天井を見ると左右は低く中央が高く馬の鬣《たてがみ》のごとき形《かた》ちをしてその一番高
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