の地下にはカーライルの愛犬ニロが葬むられております。ニロは千八百六十年二月一日に死にました。墓標も当時は存しておりましたが惜しいかなその後取払われました」と中々|精《くわ》しい。
 カーライルが麦藁帽《むぎわらぼう》を阿弥陀《あみだ》に被《かぶ》って寝巻姿のまま啣《くわ》え煙管《ぎせる》で逍遥《しょうよう》したのはこの庭園である。夏の最中《もなか》には蔭深き敷石の上にささやかなる天幕《テント》を張りその下に机をさえ出して余念もなく述作に従事したのはこの庭園である。星|明《あきら》かなる夜《よ》最後の一ぷくをのみ終りたる後、彼が空を仰いで「嗚呼《ああ》余が最後に汝《なんじ》を見るの時は瞬刻の後《のち》ならん。全能の神が造れる無辺大の劇場、眼に入《い》る無限、手に触《ふ》るる無限、これもまた我が眉目を掠《かす》めて去らん。しかして余はついにそを見るを得ざらん。わが力を致せるや虚ならず、知らんと欲するや切なり。しかもわが知識はただかくのごとく微《び》なり」と叫んだのもこの庭園である。
 余は婆さんの労に酬《むく》ゆるために婆さんの掌《てのひら》の上に一片《いっぺん》の銀貨を載《の》せた。ありがとうと云う声さえも朗読的であった。一時間の後|倫敦《ロンドン》の塵《ちり》と煤《すす》と車馬の音とテームス河とはカーライルの家を別世界のごとく遠き方《かた》へと隔《へだ》てた。



底本:「夏目漱石全集2」ちくま文庫、筑摩書房
   1987(昭和62)年10月27日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版夏目漱石全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年4月〜1972(昭和47)年1月
入力:柴田卓治
校正:LUNA CAT
2000年8月31日公開
2004年2月26日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全5ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング