い背筋《せすじ》を通して硝子《ガラス》張りの明り取りが着いている。このアチックに洩《も》れて来る光線は皆頭の上から真直《まっすぐ》に這入《はい》る。そうしてその頭の上は硝子一枚を隔てて全世界に通ずる大空である。眼に遮《さえぎ》るものは微塵《みじん》もない。カーライルは自分の経営でこの室《しつ》を作った。作ってこれを書斎とした。書斎としてここに立《たて》籠《こも》った。立籠って見て始めてわが計画の非なる事を悟った。夏は暑くておりにくく、冬は寒くておりにくい。案内者は朗読的にここまで述べて余を顧《かえ》りみた。真丸《まんまる》な顔の底に笑の影が見える。余は無言のままうなずく。
カーライルは何のためにこの天に近き一室の経営に苦心したか。彼は彼の文章の示すごとく電光的の人であった。彼の癇癖《かんぺき》は彼の身辺を囲繞《いにょう》して無遠慮に起る音響を無心に聞き流して著作に耽《ふけ》るの余裕を与えなかったと見える。洋琴《ピアノ》の声、犬の声、鶏の声、鸚鵡《おうむ》の声、いっさいの声はことごとく彼の鋭敏なる神経を刺激して懊悩《おうのう》やむ能《あた》わざらしめたる極《きょく》ついに彼をして天に最も近く人にもっとも遠ざかれる住居をこの四階の天井裏に求めしめたのである。
彼のエイトキン夫人に与えたる書翰《しょかん》にいう「此|夏中《なつじゅう》は開け放ちたる窓より聞ゆる物音に悩まされ候事《そろこと》一方《ひとかた》ならず色々修繕も試み候えども寸毫《すんごう》も利目無之《ききめこれなく》夫《それ》より篤《とく》と熟考の末家の真上に二十尺四方の部屋を建築致す事に取極め申|候《そろ》是は壁を二重に致し光線は天井より取り風通しは一種の工夫をもって差支《さしつかえ》なき様致す仕掛に候えば出来上り候《そろ》上は仮令《たとい》天下の鶏共一時に鬨《とき》の声を揚げ候《そろ》とも閉口|仕《つかまつ》らざる積《つもり》に御座|候《そろ》」
かくのごとく予期せられたる書斎は二千円の費用にてまずまず思い通りに落成を告げて予期通りの功果を奏したがこれと同時に思い掛けなき障害がまたも主人公の耳辺《じへん》に起った。なるほど洋琴《ピアノ》の音《ね》もやみ、犬の声もやみ、鶏の声、鸚鵡の声も案のごとく聞えなくなったが下層にいるときは考だに及ばなかった寺の鐘、汽車の笛《ふえ》さては何とも知れず遠きより来《きた》
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