。――どうも何《なん》ですな。大分御|忙《いそ》がしい様ですな。先生た余つ程|違《ちが》つてますね。――蟻なら種油《たねあぶら》を御注《おつ》ぎなさい。さうして苦《くる》しがつて、穴から出《で》て来《く》る所を一々《いち/\》殺すんです。何なら殺《ころ》しませうか」
「蟻ぢやない。斯《か》うして、天気の好《い》い時に、花粉を取《と》つて、雌蕊《しずゐ》へ塗り付《つ》けて置くと、今に実《み》が結《な》るんです。暇《ひま》だから植木屋から聞《き》いた通り、遣《や》つてる所だ」
「なある程。どうも重宝な世の中《なか》になりましたね。――然し盆栽は好《い》いもんだ。奇麗で、楽しみになつて」
代助は面倒臭《めんどくさ》いから返事をせずに黙つてゐた。やがて、
「悪戯《いたづら》も好加減《いゝかげん》に休《よ》すかな」と云ひながら立ち上《あ》がつて、縁側へ据付《すゑつけ》の、籐《と》の安楽|椅子《いす》に腰を掛けた。夫れ限《ぎ》りぽかんと何か考へ込んでゐる。門野《かどの》は詰《つま》らなくなつたから、自分の玄関|傍《わき》の三畳|敷《じき》へ引き取つた。障|子《じ》を開《あ》けて這入らうとすると、又縁側へ呼び返《かへ》された。
「平岡が今日《けふ》来《く》ると云つたつて」
「えゝ、来《く》る様な御話しでした」
「ぢや待《ま》つてゐやう」
代助は外出を見合せた。実は平岡の事が此間《このあひだ》から大分気に掛《かゝ》つてゐる。
平岡は此前《このぜん》、代助を訪問した当時、既《すで》に落ち付《つ》いてゐられない身分であつた。彼《かれ》自身の代助に語つた所によると、地位の心当りが二三ヶ所あるから、差し当り其方面へ運動して見る積りなんださうだが、其二三ヶ所が今どうなつてゐるか、代助は殆んど知らない。代助の方から神保町の宿《やど》を訪《たづ》ねた事が二返あるが、一度は留守であつた。一度は居つたには居《お》つた。が、洋服を着《き》た儘、部屋《へや》の敷居《しきゐ》の上に立つて、何《なに》か急《せわ》しい調子で、細君を極《き》め付《つ》けてゐた。――案内なしに廊下を伝《つた》つて、平岡の部屋の横《よこ》へ出《で》た代助には、突然ながら、たしかに左様《さう》取れた。其時平岡は一寸《ちよつと》振り向《む》いて、やあ君かと云つた。其顔にも容子にも、少しも快《こゝろ》よさゝうな所は見えなかつた。部屋の内《なか》から顔を出した細君は代助を見て、蒼白《あをじろ》い頬《ほゝ》をぽつと赤くした。代助は何となく席に就《つ》き悪《にく》くなつた。まあ這入れと申し訳に云ふのを聞き流して、いや別段用ぢやない。何《ど》うしてゐるかと思つて一寸《ちよつと》来《き》て見た丈だ。出掛《でか》けるなら一所に出様《でやう》と、此方《こつち》から誘ふ様にして表《おもて》へ出《で》て仕舞つた。
其時平岡は、早く家《いへ》を探《さが》して落ち付きたいが、あんまり忙《いそが》しいんで、何《ど》うする事も出来ない、たまに宿《やど》のものが教へてくれるかと思ふと、まだ人が立ち退《の》かなかつたり、あるひは今|壁《かべ》を塗《ぬ》つてる最中《さいちう》だつたりする。などと、電車へ乗つて分れる迄諸事苦情づくめであつた。代助も気の毒になつて、そんなら家《いへ》は、宅《うち》の書生に探《さが》させやう。なに不景気だから、大分|空《あ》いてるのがある筈だ。と請合《うけあ》つて帰つた。
夫《それ》から約束通り門野《かどの》を探《さが》しに出《だ》した。出《だ》すや否や、門野はすぐ恰好《かつこう》なのを見付けて来《き》た。門野《かどの》に案内をさせて平岡夫婦に見せると、大抵|可《よ》からうと云ふ事で分《わか》れたさうだが、門野《かどの》は家主《いへぬし》の方へ責任もあるし、又|其所《そこ》が気に入らなければ外《ほか》を探《さが》す考もあるからと云ふので、借りるか借りないか判然《はつきり》した所を、もう一遍確かめさしたのである。
「君、家主《いへぬし》の方へは借《か》りるつて、断わつて来《き》たんだらうね」
「えゝ、帰りに寄《よ》つて、明日《あした》引越すからつて、云つて来《き》ました」
四の三
代助は椅子に腰《こし》を掛《か》けた儘、新《あた》らしく二度の世帯《しよたい》を東京に持つ、夫婦の未来を考へた。平岡は三年前新橋で分れた時とは、もう大分変つてゐる。彼《かれ》の経歴は処世の階子段《はしごだん》を一二段で踏《ふ》み外《はづ》したと同じ事である。まだ高い所へ上《のぼ》つてゐなかつた丈が、幸《さひはひ》と云へば云ふ様なものゝ、世間の眼《め》に映ずる程、身体《からだ》に打撲《だぼく》を受けてゐないのみで、其実精神状態には既に狂ひが出来てゐる。始めて逢つた時、代助はすぐ左様《さう》思つた。けれども、三年間に起つた自分の方の変化を打算《ださん》して見て、或は此方《こつち》の心《こゝろ》が向《むかふ》に反響を起したのではなからうかと訂正した。が、其後《そのご》平岡の旅宿へ尋ねて行つて、座敷へも這入らないで一所に外《そと》へ出《で》た時の、容子から言語動作を眼の前に浮べて見ると、どうしても又最初の判断に戻《もど》らなければならなくなつた。平岡は其時|顔《かほ》の中心《ちうしん》に一種の神経を寄せてゐた。風《かぜ》が吹《ふ》いても、砂《すな》が飛《と》んでも、強い刺激を受けさうな眉《まゆ》と眉《まゆ》の継目《つぎめ》を、憚《はゞか》らず、ぴくつかせてゐた。さうして、口《くち》にする事《こと》が、内容の如何に関はらず、如何にも急《せわ》しなく、且つ切《せつ》なさうに、代助の耳《みゝ》に響《ひゞ》いた。代助には、平岡の凡てが、恰も肺の強くない人の、重苦《おもくる》しい葛湯《くづゆ》の中《なか》を片息《かたいき》で泳《およ》いでゐる様に取れた。
「あんなに、焦《あせ》つて」と、電車へ乗つて飛んで行く平岡の姿《すがた》を見送つた代助は、口《くち》の内《うち》でつぶやいだ。さうして旅宿に残されてゐる細君の事を考へた。
代助は此細君を捕《つら》まへて、かつて奥さんと云つた事がない。何時《いつ》でも三千代《みちよ》さん/\と、結婚しない前の通りに、本名《ほんみよう》を呼《よ》んでゐる。代助は平岡に分《わか》れてから又引き返して、旅宿《りよしゆく》へ行つて、三千代《みちよ》さんに逢つて話《はな》しをしやうかと思つた。けれども、何《なん》だか行《ゆ》けなかつた。足《あし》を停《と》めて思案《しあん》しても、今の自分には、行くのが悪《わる》いと云ふ意味はちつとも見出《みいだ》せなかつた。けれども、気《き》が咎《とが》めて行《い》かれなかつた。勇気を出《だ》せば行《い》かれると思つた。たゞ代助には是丈の勇気を出すのが苦痛であつた。夫《それ》で家《うち》へ帰つた。其代り帰つても、落《お》ち付《つ》かない様な、物足《ものた》らない様な、妙な心持がした。ので、又|外《そと》へ出《で》て酒を飲《の》んだ。代助は酒をいくらでも飲む男である。ことに其晩はしたゝかに飲んだ。
「あの時は、何《ど》うかしてゐたんだ」と代助は椅子に倚《よ》りながら、比較的|冷《ひや》やかな自己で、自己の影を批判した。
「何《なに》か御用ですか」と門野《かどの》が又|出《で》て来《き》た。袴《はかま》を脱《ぬ》いで、足袋《たび》を脱《ぬ》いで、団子《だんご》の様な素足《すあし》を出《だ》してゐる。代助は黙《だま》つて門野《かどの》の顔《かほ》を見た。門野《かどの》も代助の顔を見て、一寸《ちよつと》の間《あひだ》突立《つゝた》つてゐた。
「おや、御呼《および》になつたんぢやないですか。おや、おや」と云つて引込んで行つた。代助は別段|可笑《おか》しいとも思はなかつた。
「小母《おば》さん、御呼《およ》びになつたんぢやないとさ。何《ど》うも変だと思つた。だから手も何も鳴らないつて云ふのに」といふ言葉が茶の間《ま》の方で聞《きこ》えた。夫から門野《かどの》と婆《ばあ》さんの笑ふ声がした。
其時、待ち設けてゐる御客が来《き》た。取次《とりつぎ》に出《で》た門野《かどの》は意外な顔をして這入つて来《き》た。さうして、其顔を代助の傍《そば》迄持つて来《き》て、先生、奥さんですと囁《さゝ》やく様に云つた。代助は黙《だま》つて椅子を離れて坐敷へ這入つた。
四の四
平岡の細君は、色の白い割に髪《かみ》の黒い、細面《ほそおもて》に眉毛《まみへ》の判然《はつきり》映《うつ》る女である。一寸《ちよつと》見ると何所《どこ》となく淋《さみ》しい感じの起る所が、古版《こはん》の浮世絵に似てゐる。帰京後は色光沢《いろつや》がことに可《よ》くないやうだ。始めて旅宿で逢つた時、代助は少《すこ》し驚ろいた位である。汽車で長く揺られた疲れが、まだ回復しないのかと思つて、聞いて見たら、左様《さう》ぢやない、始終|斯《か》うなんだと云はれた時は、気の毒になつた。
三千代《みちよ》は東京を出《で》て一年目に産をした。生れた子供はぢき死んだが、それから心臓を痛めたと見えて、兎角具合がわるい。始めのうちは、ただ、ぶら/\してゐたが、何《ど》うしても、はか/″\しく癒らないので、仕舞に医者に見て貰《もら》つたら、能《よ》くは分《わか》らないが、ことに依《よ》ると何とかいふ六づかしい名の心臓病かも知れないと云つた。もし左様《さう》だとすれば、心臓から動脈へ出《で》る血《ち》が、少しづゝ、後戻《あともど》りをする難症だから、根治は覚束ないと宣告されたので、平岡も驚ろいて、出来る丈養生に手を尽した所為《せゐ》か、一年許りするうちに、好《い》い案排《あんばい》に、元気が滅切《めつき》りよくなつた。色光沢《いろつや》も殆んど元《もと》の様に冴々《さえ/″\》して見える日が多いので、当人も喜《よろ》こんでゐると、帰る一ヶ月ばかり前から、又|血色《けつしよく》が悪くなり出《だ》した。然し医者の話によると、今度のは心臓の為《ため》ではない。心臓は、夫程丈夫にもならないが、決して前よりは悪《わる》くなつてゐない。弁《べん》の作用に故障があるものとは、今は決して認められないといふ診断であつた。――是は三千代が直《ぢか》に代助に話《はな》した所である。代助は其時三千代の顔を見て、矢っ張り何か心配の為《ため》ぢやないかしらと思つた。
三千代《みちよ》は美《うつ》くしい線《せん》を奇麗に重ねた鮮《あざや》かな二重瞼《ふたへまぶた》を持つてゐる。眼《め》の恰好は細長い方であるが、瞳《ひとみ》を据ゑて凝《じつ》と物を見るときに、それが何かの具合で大変大きく見える。代助は是を黒眼《くろめ》の働らきと判断してゐた。三千代《みちよ》が細君にならない前、代助はよく、三千代《みちよ》の斯《か》う云ふ眼遣《めづかひ》を見た。さうして今でも善《よ》く覚えてゐる。三千代《みちよ》の顔を頭《あたま》の中《なか》に浮《うか》べやうとすると、顔の輪廓が、まだ出来|上《あが》らないうちに、此|黒《くろ》い、湿《うる》んだ様に暈《ぼか》された眼《め》が、ぽつと出《で》て来《く》る。
廊下伝ひに坐敷へ案内された三千代《みちよ》は今代助の前に腰《こし》を掛けた。さうして奇麗な手を膝《ひざ》の上《うへ》に畳《かさ》ねた。下《した》にした手にも指輪《ゆびわ》を穿《は》めてゐる。上《うへ》にした手にも指輪《ゆびわ》を穿《は》めてゐる。上《うへ》のは細い金《きん》の枠《わく》に比較的大きな真珠《しんじゆ》を盛《も》つた当世風のもので、三年前結婚の御祝として代助から贈られたものである。
三千代《みちよ》は顔《かほ》を上《あ》げた。代助は、突然《とつぜん》例の眼《め》を認《みと》めて、思はず瞬《またゝき》を一つした。
汽車で着いた明日《あくるひ》平岡と一所に来《く》る筈であつたけれども、つい気分が悪《わる》いので、来損《きそく》なつて仕舞つて、それからは一人《ひとり》でなくつては来《く》る機会がないので、つい出《で》ずにゐたが、今
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