に書《か》いて貰《もら》つたんである。爾来長井は何時《いつ》でも、之を自分の居間《ゐま》に掛けて朝夕眺めてゐる。代助は此額の由来を何遍|聞《き》かされたか知れない。
 今から十五六年前に、旧藩主の家《いへ》で、月々《つき/″\》の支出が嵩《かさ》んできて、折角持ち直した経済が又|崩《くづ》れ出した時にも、長井は前年の手腕によつて、再度の整理を委託された。其時長井は自分で風呂の薪《まき》を焚いて見《み》て、実際の消費|高《だか》と帳面づらの消費|高《だか》との差違から調《しら》べにかゝつたが、終日終夜この事丈に精魂を打ち込んだ結果は、約一ヶ月内に立派な方法を立て得るに至つた。それより以後藩主の家では比較的豊かな生計《くらし》をしてゐる。
 斯う云ふ過去の歴史を持つてゐて、此過去の歴史以外には、一歩も踏み出して考へる事を敢てしない長井は、何《なん》によらず、誠実と熱心へ持つて行きたがる。
「御前は、どう云ふものか、誠実と熱心が欠けてゐる様だ。それぢや不可ん。だから何にも出来ないんだ」
「誠実も熱心もあるんですが、たゞ人事上に応用出来ないんです」
「何《ど》う云ふ訳で」
 代助は又返答に窮した。代助の考によると、誠実だらうが、熱心だらうが、自分が出来合《できあひ》の奴《やつ》を胸に蓄《たく》はへてゐるんぢやなくつて、石と鉄と触れて火花《ひばな》の出《で》る様に、相手次第で摩擦の具合がうまく行けば、当事者|二人《ににん》の間に起るべき現象である。自分の有する性質と云ふよりは寧ろ精神の交換作用である。だから相手が悪《わる》くつては起《おこ》り様がない。
「御父《おとう》さんは論語だの、王陽明だのといふ、金《きん》の延金《のべがね》を呑《の》んで入らつしやるから、左様《さう》いふ事を仰しやるんでせう」
「金《きん》の延金《のべがね》とは」
 代助はしばらく黙《だま》つてゐたが、漸やく、
「延金《のべがね》の儘|出《で》て来《く》るんです」と云つた。長井は、書物癖のある、偏窟な、世慣れない若輩のいひたがる不得要領の警句として、好奇心のあるにも拘はらず、取り合ふ事を敢てしなかつた。

       三の五

 それから約四十分程して、老人は着物《きもの》を着換《きか》えて、袴《はかま》を穿《は》いて、俥《くるま》に乗《の》つて、何処《どこ》かへ出《で》て行《い》つた。代助も玄関迄送つて出たが、又引き返して客間《きやくま》の戸を開けて中《なか》へ這入《はい》つた。是《これ》は近頃《ちかごろ》になつて建《た》て増した西洋作りで、内部の装飾其他の大部分は、代助の意匠に本《もと》づいて、専門家へ注文して出来上つたものである。ことに欄間《らんま》の周囲に張つた模様画は、自分の知り合ひの去る画家に頼《たの》んで、色々相談の揚句《あげく》に成つたものだから、特更興味が深い。代助は立ちながら、画巻物《ゑまきもの》を展開《てんかい》した様な、横長《よこなが》の色彩《しきさい》を眺めてゐたが、どう云ふものか、此前《このまへ》来《き》て見た時よりは、痛《いた》く見劣りがする。是では頼《たの》もしくないと思ひながら、猶局部々々に眼《め》を付《つ》けて吟味してゐると、突然|嫂《あによめ》が這入つて来た。
「おや、此所《こゝ》に入《い》らつしやるの」と云つたが、「一寸《ちよいと》其所《そこい》らに私《わたくし》の櫛《くし》が落ちて居《ゐ》なくつて」と聞いた。櫛《くし》は長椅子《ソーフア》の足《あし》の所《ところ》にあつた。昨日《きのふ》縫子《ぬひこ》に貸《か》して遣《や》つたら、何所《どこ》かへ失《なく》なして仕舞つたんで、探《さが》しに来《き》たんださうである。両手で頭《あたま》を抑へる様にして、櫛《くし》を束髪の根方《ねがた》へ押し付けて、上眼《うはめ》で代助を見ながら、
「相変らず茫乎《ぼんやり》してるぢやありませんか」と調戯《からか》つた。
「御父《おとう》さんから御談義を聞《き》かされちまつた」
「また? 能く叱《しか》られるのね。御帰り匆々、随分気が利かないわね。然し貴方《あなた》もあんまり、好《よ》かないわ。些とも御父《おとう》さんの云ふ通りになさらないんだもの」
「御父《おとう》さんの前で議論なんかしやしませんよ。万事控え目に大人しくしてゐるんです」
「だから猶始末が悪《わる》いのよ。何か云ふと、へい/\つて、さうして、些《ちつ》とも云ふ事を聞かないんだもの」
 代助は苦笑して黙《だま》つて仕舞つた。梅子《うめこ》は代助の方へ向いて、椅子へ腰を卸した。脊《せい》のすらりとした、色の浅黒い、眉の濃《こ》い、唇の薄い女である。
「まあ、御掛《おか》けなさい。少し話し相手になつて上《あ》げるから」
 代助は矢っ張り立つた儘、嫂《あによめ》の姿《すがた》を見守つてゐた。
「今日《けふ》は妙な半襟《はんえり》を掛けてますね」
「これ?」
 梅子は顎《あご》を縮《ちゞ》めて、八の字を寄せて、自分の襦袢の襟を見やうとした。
「此間《こないだ》買つたの」
「好《い》い色だ」
「まあ、そんな事は、何《ど》うでも可《い》いから、其所《そこ》へ御掛《おか》けなさいよ」
 代助は嫂《あによめ》の真《ま》正面へ腰を卸した。
「へえ掛《か》けました」
「一体《いつたい》今日《けふ》は何を叱《しか》られたんです」
「何を叱《しか》られたんだか、あんまり要領を得ない。然し御父《おとう》さんの国家社会の為《ため》に尽すには驚ろいた。何でも十八の年《とし》から今日迄《こんにちまで》のべつに尽《つく》してるんだつてね」
「それだから、あの位に御成りになつたんぢやありませんか」
「国家社会の為に尽《つく》して、金《かね》が御父《おとう》さん位儲かるなら、僕も尽《つく》しても好《い》い」
「だから遊んでないで、御|尽《つく》しなさいな。貴方《あなた》は寐てゐて御金《おかね》を取《と》らうとするから狡猾よ」
「御金《おかね》を取らうとした事は、まだ有《あ》りません」
「取《と》らうとしなくつても、使《つか》ふから同《おんな》じぢやありませんか」
「兄《にい》さんが何《なん》とか云つてましたか」
「兄《にい》さんは呆《あき》れてるから、何とも云やしません」
「随分猛烈だな。然し御父《おとう》さんより兄《にい》さんの方が偉《えら》いですね」
「何《ど》うして。――あら悪《にく》らしい、又あんな御世辞を使つて。貴方《あなた》はそれが悪《わる》いのよ。真面目《まじめ》な顔をして他《ひと》を茶化すから」
「左様《そん》なもんでせうか」
「左様《そん》なもんでせうかつて、他《ひと》の事ぢやあるまいし。少《すこ》しや考へて御覧なさいな」
「何《ど》うも此所《こゝ》へ来《く》ると、丸で門野《かどの》と同《おんな》じ様になつちまふから困《こま》る」
「門野《かどの》つて何《なん》です」
「なに宅《うち》にゐる書生ですがね。人《ひと》に何か云はれると、屹度|左様《そん》なもんでせうか、とか、左様《さう》でせうか、とか答へるんです」
「あの人が? 余っ程妙なのね」

       三の六

 代助は一寸《ちよつと》話《はなし》を已《や》めて、梅子《うめこ》の肩越《かたごし》に、窓掛《まどかけ》の間《あひだ》から、奇麗な空《そら》を透《す》かす様に見てゐた。遠くに大きな樹《き》が一本ある。薄茶色《うすちやいろ》の芽《め》を全体に吹いて、柔《やわ》らかい梢《こづえ》の端《はじ》が天《てん》に接《つゞ》く所は、糠雨《ぬかあめ》で暈《ぼか》されたかの如くに霞《かす》んでゐる。
「好《い》い気候になりましたね。何所《どこ》か御花見にでも行きませうか」
「行きませう。行くから仰《おつ》しやい」
「何《なに》を」
「御父《おとう》さまから云はれた事を」
「云はれた事は色々あるんですが、秩序立《ちつじよだ》てて繰《く》り返《かへ》すのは困るですよ。頭《あたま》が悪《わる》いんだから」
「まだ空《そら》つとぼけて居《ゐ》らつしやる。ちやんと知つてますよ」
「ぢや、伺《うかゞ》ひませうか」
 梅子は少しつんとした。
「貴方《あなた》は近頃余つ程|減《へ》らず口《ぐち》が達者におなりね」
「何《なに》、姉《ねえ》さんが辟易する程ぢやない。――時に今日《けふ》は大変静かですね。どうしました、小供達は」
「小供は学校です」
 十六七の小間使《こまづかひ》が戸《と》を開《あ》けて顔《かほ》を出した。あの、旦那様が、奥様に一寸《ちよつと》電話|口《ぐち》迄と取り次《つ》いだなり、黙つて梅子の返事を待つてゐる。梅子はすぐ立つた。代助も立つた。つゞいて客間《きやくま》を出やうとすると、梅子は振り向いた。
「あなたは、其所《そこ》に居《ゐ》らつしやい。少し話しがあるから」
 代助には嫂《あによめ》のかう云ふ命令的の言葉が何時《いつ》でも面白く感ぜられる。御緩《ごゆつくり》と見送つた儘、又腰を掛けて、再び例の画を眺め出《だ》した。しばらくすると、其色が壁《かべ》の上に塗り付けてあるのでなくつて、自分の眼球《めだま》の中《なか》から飛び出して、壁《かべ》の上《うへ》へ行つて、べた/\喰《く》つ付《つ》く様に見えて来《き》た。仕舞には眼球《めだま》から色を出す具合一つで、向ふにある人物樹木が、此方《こちら》の思ひ通りに変化出来る様になつた。代助はかくして、下手《へた》な個所々々を悉く塗り更《か》へて、とう/\自分の想像し得《う》る限りの尤も美くしい色彩に包囲されて、恍惚と坐《すは》つてゐた。所へ梅子《うめこ》が帰つて来《き》たので、忽ち当り前の自分に戻つて仕舞つた。
 梅子の用事と云ふのを改まつて聞いて見ると、又例の縁談の事であつた。代助は学校を卒業する前から、梅子の御蔭で写真実物色々な細君の候補者に接した。けれども、何《い》づれも不合格者ばかりであつた。始めのうちは体裁の好《い》い逃《にげ》口上で断わつてゐたが、二年程前からは、急に図迂《づう》々々しくなつて、屹度相手にけちを付ける。口《くち》と顎《あご》の角度が悪《わる》いとか、眼《め》の長さが顔の幅《はゞ》に比例しないとか、耳の位置が間違《まちが》つてるとか、必ず妙な非難を持つて来《く》る。それが悉く尋常な言草《いひぐさ》でないので、仕舞には梅子も少々考へ出した。是は必竟世話を焼き過ぎるから、付け上つて、人を困《こま》らせるのだらう。当分|打遣《うつちや》つて置いて、向ふから頼み出させるに若《し》くはない。と決心して、夫からは縁談の事をついぞ口《くち》にしなくなつた。所が本人は一向困つた様子もなく、依然として海のものとも、山のものとも見当が付かない態度で今日迄|暮《くら》して来《き》た。
 其所《そこ》へ親爺《おやぢ》が甚だ因念の深《ふか》いある候補者を見付けて、旅行|先《さき》から帰つた。梅子は代助の来《く》る二三日前に、其話を親爺《おやぢ》から聞かされたので、今日《けふ》の会談は必ずそれだらうと推したのである。然し代助は実際老人から結婚問題に付いては、此日《このひ》何にも聞《き》かなかつたのである。老人は或はそれを披露する気で、呼んだのかも知れないが、代助の態度を見て、もう少し控えて置く方が得策だといふ了見を起した結果、故意《わざ》と話題を避けたとも取れる。
 此候補者に対して代助は一種特殊な関係を有《も》つてゐた。候補者の姓は知つてゐる。けれど名は知らない。年齢、容貌、教育、性質に至つては全く知らない。何故《なぜ》その女が候補者に立つたと云ふ因念になると又能く知つて居る。

       三の七

 代助の父《ちゝ》には一人《ひとり》の兄《あに》があつた。直記《なほき》と云つて、父《ちゝ》とはたつた一つ違ひの年上《としうへ》だが、父《ちゝ》よりは小柄《こがら》なうへに、顔付《かほつき》眼鼻立《めはなだち》が非常に似《に》てゐたものだから、知らない人には往々|双子《ふたご》と間違へられた。其折は父も得《とく》とは云はなかつた。誠之進といふ幼名で通《とほ》つてゐた。
 直記《なほき》と
前へ 次へ
全49ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング