》あつて、
「勇気が要《い》るのかい」と手に持《も》つてゐた烟管《きせる》を畳《たゝみ》の上《うへ》に放《ほう》り出《だ》した。代助は膝頭《ひざがしら》を見詰めて黙《だま》つてゐた。
「当人が気に入らないのかい」と父が又|聞《き》いた。代助は猶返事をしなかつた。彼は今迄|父《ちゝ》に対して己《おの》れの四半分も打ち明《あ》けてはゐなかつた。その御|蔭《かげ》で父《ちゝ》と平和の関係を漸く持続して来《き》た。けれども三千代の事丈は始めから決して隠《かく》す気はなかつた。自分の頭《あたま》の上《うへ》に当然落ちかゝるべき結果を、策で避《さ》ける卑怯が面白くなかつたからである。彼はたゞ自白の期に達してゐないと考へた。従つて三千代の名は丸で口《くち》へは出《だ》さなかつた。父《ちゝ》は最後に、
「ぢや何《なん》でも御前《おまへ》の勝手にするさ」と云つて苦《にが》い顔《かほ》をした。
代助も不愉快であつた。然し仕方がないから、礼をして父《ちゝ》の前《まへ》を退《さ》がらうとした。ときに父《ちゝ》は呼び留《と》めて、
「己《おれ》の方でも、もう御前《おまへ》の世話はせんから」と云つた。座敷へ帰つた時、梅子は待ち構へた様に、
「何《ど》うなすつて」と聞いた。代助は答へ様もなかつた。
十六の一
翌日《あくるひ》眼《め》が覚《さ》めても代助の耳の底《そこ》には父《ちゝ》の最後の言葉が鳴《な》つてゐた。彼《かれ》は前後の事情から、平生以上の重《おも》みを其内容に附着しなければならなかつた。少《すく》なくとも、自分丈では、父《ちゝ》から受ける物質的の供給がもう絶えたものと覚悟する必要があつた。代助の尤も恐るゝ時期は近づいた。父《ちゝ》の機嫌を取り戻《もど》すには、今度の結婚を断るにしても、あらゆる結婚に反対してはならなかつた。あらゆる結婚に反対しても、父《ちゝ》を首肯《うなづ》かせるに足る程の理由を、明白に述べなければならなかつた。代助に取つては二つのうち何《いづ》れも不可能であつた。人生に対する自家の哲学《フヒロソフヒー》の根本に触れる問題に就いて、父《ちゝ》を欺くのは猶更不可能であつた。代助は昨日《きのふ》の会見を回顧して、凡てが進むべき方向に進んだとしか考へ得なかつた。けれども恐ろしかつた。自己が自己に自然な因果を発展させながら、其因果の重《おも》みを脊中《せなか》に負《しよ》つて、高い絶壁の端《はじ》迄押し出された様な心持であつた。
彼《かれ》は第一の手段として、何か職業を求めなければならないと思つた。けれども彼《かれ》の頭《あたま》の中《なか》には職業と云ふ文字がある丈で、職業其物は体を具えて現《あら》はれて来《こ》なかつた。彼は今日迄如何なる職業にも興味を有つてゐなかつた結果として、如何なる職業を想ひ浮《うか》べて見ても、只《たゞ》其上《そのうへ》を上滑《うはすべ》りに滑《すべ》つて行く丈で、中《なか》に踏《ふ》み込んで内部から考へる事は到底出来なかつた。彼には世間が平《ひら》たい複雑な色分《いろわけ》の如くに見えた。さうして彼《かれ》自身は何等の色《いろ》を帯びてゐないとしか考へられなかつた。
凡ての職業を見渡した後《のち》、彼《かれ》の眼《め》は漂泊者の上《うへ》に来《き》て、そこで留《と》まつた。彼は明《あき》らかに自分の影を、犬と人《ひと》の境《さかい》を迷《まよ》ふ乞食《こつじき》の群《むれ》の中《なか》に見|出《いだ》した。生活の堕落は精神の自由を殺す点に於て彼の尤も苦痛とする所であつた。彼は自分の肉体に、あらゆる醜穢《しうえ》を塗《ぬ》り付けた後《あと》、自分の心《こゝろ》の状態が如何に落魄するだらうと考へて、ぞつと身振《みぶるひ》をした。
此落魄のうちに、彼は三千代を引張り廻《まは》さなければならなかつた。三千代は精神的に云つて、既に平岡の所有ではなかつた。代助は死に至る迄|彼女《かのをんな》に対して責任を負ふ積であつた。けれども相当の地位を有《も》つてゐる人の不実《ふじつ》と、零落《れいらく》の極に達した人の親切とは、結果に於て大《たい》した差違はないと今更ながら思はれた。死ぬ迄三千代に対して責任を負ふと云ふのは、負《お》ふ目的があるといふ迄で、負《お》つた事実には決してなれなかつた。代助は惘然《もうぜん》として黒内障《そこひ》に罹《かゝ》つた人の如くに自失した。
彼《かれ》は又三千代を訪《たづ》ねた。三千代は前日《ぜんじつ》の如く静《しづか》に落《お》ち着《つ》いてゐた。微笑《ほゝえみ》と光輝《かゞやき》とに満《み》ちてゐた。春風《はるかぜ》はゆたかに彼女《かのをんな》の眉《まゆ》を吹いた。代助は三千代が己《おのれ》を挙げて自分に信頼してゐる事を知つた。其証拠を又|眼《ま》のあたりに見た時、彼《かれ》は愛憐《あいれん》の情と気の毒の念に堪えなかつた。さうして自己を悪漢の如くに呵責《かしやく》した。思ふ事は全く云ひそびれて仕舞つた。帰るとき、
「又都合して宅《うち》へ来《き》ませんか」と云つた。三千代はえゝと首肯《うなづ》いて微笑した。代助は身を切《き》られる程|酷《つら》かつた。
代助は此間《このあひだ》から三千代を訪問する毎《ごと》に、不愉快ながら平岡の居《ゐ》ない時を択《えら》まなければならなかつた。始めはそれを左程にも思はなかつたが、近頃では不愉快と云ふよりも寧ろ、行き悪《にく》い度が日毎に強くなつて来《き》た。其上《そのうへ》留守の訪問が重《かさ》なれば、下女に不審を起させる恐れがあつた。気の所為《せゐ》か、茶を運《はこ》ぶ時にも、妙に疑ぐり深い眼付《めつき》をして、見られる様でならなかつた。然し三千代は全く知らぬ顔をしてゐた。少《すく》なくとも上部《うはべ》丈は平気であつた。
平岡との関係に就ては、無論詳しく尋ねる機会もなかつた。会《たま》に一言二言《ひとことふたこと》夫《それ》となく問を掛けて見ても、三千代は寧ろ応じなかつた。たゞ代助の顔を見《み》れば、見てゐる其間《そのあひだ》丈の嬉《うれ》しさに溺《おぼ》れ尽《つく》すのが自然の傾向であるかの如くに思はれた。前後を取り囲《かこ》む黒い雲が、今にも逼《せま》つて来はしまいかと云ふ心配は、陰《かげ》ではいざ知らず、代助の前《まへ》には影《かげ》さへ見せなかつた。三千代は元来神経質の女であつた。昨今の態度は、何《ど》うしても此女の手際ではないと思ふと、三千代の周囲の事情が、まだ夫程険悪に近づかない証拠になるよりも、自分の責任が一層重くなつたのだと解釈せざるを得なかつた。
「すこし又話したい事があるから来《き》て下《くだ》さい」と前よりは稍真面目に云つて代助は三千代と別れた。
十六の二
中二日《なかふつか》置《お》いて三千代が来《く》る迄、代助の頭《あたま》は何等の新《あたら》しい路《みち》を開拓し得なかつた。彼《かれ》の頭《あたま》の中《なか》には職業の二字が大きな楷書《かいしよ》で焼き付《つ》けられてゐた。それを押《お》し退《の》けると、物質的供給の杜絶がしきりに踊り狂《くる》つた。それが影を隠《かく》すと、三千代の未来が凄《すさま》じく荒れた。彼《かれ》の頭《あたま》には不安の旋風《つむじ》が吹き込んだ。三つのものが巴《ともえ》の如く瞬時の休《やす》みなく回転した。其結果として、彼の周囲が悉く回転しだした。彼《かれ》は船《ふね》に乗つた人《ひと》と一般であつた。回転する頭《あたま》と、回転する世界の中《なか》に、依然として落ち付いてゐた。
青山《あをやま》の宅《うち》からは何の消息もなかつた。代助は固よりそれを予期してゐなかつた。彼は力《つと》めて門野を相手にして他愛ない雑談に耽《ふけ》つた。門野は此暑さに自分の身体《からだ》を持ち扱つてゐる位、用のない男であつたから、頗る得意に代助の思ふ通り口《くち》を動《うご》かした。それでも話し草臥《くたび》れると、
「先生、将棋は何《ど》うです」抔と持ち掛けた。夕方《ゆふがた》には庭《には》に水を打《う》つた。二人《ふたり》共|跣足《はだし》になつて、手桶を一杯|宛《づゝ》持《も》つて、無分別に其所等《そこいら》を濡《ぬ》らして歩《ある》いた。門野《かどの》が隣《となり》の梧桐の天辺《てつぺん》迄|水《みづ》にして御目にかけると云つて、手桶の底を振り上《あ》げる拍子に、滑《すべ》つて尻持を突《つ》いた。白粉草《おしろいそう》が垣根の傍《そば》で花を着けた。手水鉢の蔭《かげ》に生《は》えた秋海棠の葉が著《いちゞ》るしく大きくなつた。梅雨《つゆ》は漸く晴れて、昼は雲《くも》の峰《みね》の世界となつた。強い日《ひ》は大きな空《そら》を透《す》き通《とほ》す程焼いて、空《そら》一杯の熱を地上に射り付ける天気となつた。
代助は夜《よ》に入つて頭《あたま》の上《うへ》の星ばかり眺《なが》めてゐた。朝《あさ》は書斎に這入つた。二三日は朝から蝉の声が聞《きこ》える様になつた。風呂場へ行つて、度々《たび/\》頭《あたま》を冷《ひや》した。すると門野がもう好《い》い時分だと思つて、
「何《ど》うも非常な暑さですな」と云つて、這入つて来《き》た。代助は斯《か》う云ふ上《うは》の空《そら》の生活を二日程|送《おく》つた。三日目の日盛《ひざかり》に、彼は書斎の中《なか》から、ぎら/\する空《そら》の色《いろ》を見詰《みつ》めて、上《うへ》から吐《は》き下《おろ》す焔《ほのほ》の息《いき》を嗅《か》いだ時に、非常に恐ろしくなつた。それは彼《かれ》の精神が此猛烈なる気候から永久の変化を受けつゝあると考へた為《ため》であつた。
三千代は此暑《このあつさ》を冒《おか》して前日《ぜんじつ》の約《やく》を履《ふ》んだ。代助は女の声《こえ》を聞き付けた時、自分で玄関迄飛び出《だ》した。三千代は傘《かさ》をつぼめて、風呂敷|包《づゝみ》を抱へて、格子の外《そと》に立《た》つてゐた。不断着《ふだんぎ》の儘《まゝ》宅《うち》を出《で》たと見えて、質素《しつそ》な白地《しろぢ》の浴衣《ゆかた》の袂《たもと》から手帛《はんけち》を出し掛《か》けた所であつた。代助は其姿《そのすがた》を一目《ひとめ》見た時、運命が三千代の未来を切り抜《ぬ》いて、意地悪く自分の眼の前に持つて来《き》た様に感じた。われ知らず、笑ひながら、
「馳落《かけおち》でもしさうな風ぢやありませんか」と云つた。三千代は穏《おだや》かに、
「でも買物をした序でないと上《あが》り悪《にく》いから」と真面目な答をして、代助の後《あと》に跟《つ》いて奥迄這入つて来《き》た。代助はすぐ団扇を出《だ》した。照り付けられた所為《せゐ》で三千代の頬《ほゝ》が心持よく輝《かゞ》やいた。何時《いつ》もの疲《つか》れた色は何処《どこ》にも見えなかつた。眼《め》の中《なか》にも若《わか》い沢《つや》が宿《やど》つてゐた。代助は生々《いき/\》した此美くしさに、自己の感覚を溺らして、しばらくは何事も忘れて仕舞つた。が、やがて、此美くしさを冥々の裡《うち》に打ち崩しつゝあるものは自分であると考へ出《だ》したら悲《かな》しくなつた。彼は今日《けふ》も此|美《うつ》くしさの一部分を曇らす為《ため》に三千代を呼んだに違《ちがひ》なかつた。
代助は幾|度《たび》か己れを語る事を※[#「足へん+厨」、第3水準1−92−39]躇した。自分の前に、これ程幸福に見える若い女を、眉《まゆ》一筋《ひとすぢ》にしろ心配の為《ため》に動《うご》かさせるのは、代助から云ふと非常な不徳義であつた。もし三千代に対する義務の心が、彼の胸のうちに鋭《する》どく働らいてゐなかつたなら、彼は夫《それ》から以後の事情を打ち明ける事の代りに、先達ての告白を再び同じ室《へや》のうちに繰り返して、単純なる愛の快感の下《もと》に、一切《いつさい》を放擲して仕舞つたかも知れなかつた。
代助は漸くにして思ひ切つた。
「其後《そのご》貴方《あなた》と平岡との関係は別に変りはありませんか」
三千代
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