》も早く君に独立して貰《もら》ひたいでせうがね」
「左様《さう》かも知れませんな」
「君は余つ程気楽な性分《しやうぶん》と見える。それが本当の所なんですか」
「えゝ、別に嘘《うそ》を吐《つ》く料簡もありませんな」
「ぢや全くの呑気《のんき》屋なんだね」
「えゝ、まあ呑気《のんき》屋つて云ふもんでせうか」
「兄《にい》さんは何歳《いくつ》になるんです」
「斯《か》うつと、取つて六《ろく》になりますか」
「すると、もう細君でも貰はなくちやならないでせう。兄《にい》さんの細君が出来ても、矢っ張り今の様にしてゐる積ですか」
「其時に為《な》つて見なくつちや、自分でも見当が付きませんが、何《なに》しろ、どうか為《な》るだらうと思つてます」
「其外《そのほか》に親類はないんですか」
「叔母《おば》が一人《ひとり》ありますがな。こいつは今、浜《はま》で運漕業をやつてます」
「叔母《おば》さんが?」
「叔母《おば》が遣《や》つてる訳でもないんでせうが、まあ叔父《おぢ》ですな」
「其所《そこ》へでも頼《たの》んで使つて貰《もら》つちや、どうです。運漕業なら大分|人《ひと》が要《い》るでせう」
「根が怠惰《なまけ》もんですからな。大方断わるだらうと思つてるんです」
「さう自任してゐちや困る。実は君の御母《おつか》さんが、家《うち》の婆さんに頼んで、君を僕の宅《うち》へ置いて呉れまいかといふ相談があるんですよ」
「えゝ、何だかそんな事を云つてました」
「君自身は、一体どう云ふ気なんです」
「えゝ、成るべく怠《なま》けない様にして……」
「家《うち》へ来《く》る方が好《い》いんですか」
「まあ、左様《さう》ですな」
「然し寐て散歩する丈ぢや困る」
「そりや大丈夫です。身体《からだ》の方は達者ですから。風呂でも何でも汲みます」
「風呂は水道があるから汲まないでも可《い》い」
「ぢや、掃除でもしませう」
 門野《かどの》は斯う云ふ条件で代助の書生になつたのである。

       一の四

 代助はやがて食事を済まして、烟草を吹《ふ》かし出した。今迄茶|箪笥《だんす》の陰《かげ》に、ぽつねんと膝《ひざ》を抱《かゝ》へて柱に倚《よ》り懸《かゝ》つてゐた門野《かどの》は、もう好《い》い時分だと思つて、又主人に質問を掛《か》けた。
「先生、今朝《けさ》は心臓の具合はどうですか」
 此間《このあひだ》から代助の癖を知つてゐるので、幾分か茶化した調子である。
「今日《けふ》はまだ大丈夫だ」
「何だか明日《あした》にも危《あや》しくなりさうですな。どうも先生見た様に身体《からだ》を気にしちや、――仕舞には本当の病気に取《と》つ付《つ》かれるかも知れませんよ」
「もう病気ですよ」
 門野《かどの》は只《たゞ》へえゝと云つた限《ぎり》、代助の光沢《つや》の好《い》い顔色《かほいろ》や肉《にく》の豊《ゆた》かな肩のあたりを羽織の上から眺めてゐる。代助はこんな場合になると何時《いつ》でも此青年を気の毒に思ふ。代助から見ると、此青年の頭《あたま》は、牛《うし》の脳味噌《のうみそ》で一杯詰つてゐるとしか考へられないのである。話《はなし》をすると、平民の通《とほ》る大通りを半町位しか付《つ》いて来《こ》ない。たまに横町へでも曲《まが》ると、すぐ迷児《まいご》になつて仕舞ふ。論理の地盤を竪《たて》に切り下げた坑道などへは、てんから足も踏み込めない。彼《かれ》の神経系に至つては猶更粗末である。恰も荒縄《あらなは》で組み立てられたるかの感が起る。代助は此青年の生活状態を観察して、彼は必竟何の為《ため》に呼吸を敢てして存在するかを怪しむ事さへある。それでゐて彼は平気にのらくらしてゐる。しかも此《この》のらくらを以て、暗に自分の態度と同一型に属するものと心得て、中々得意に振舞《ふるまひ》たがる。其上頑強一点張りの肉体を笠《かさ》に着《き》て、却つて主人の神経的な局所へ肉薄して来《く》る。自分の神経は、自分に特有なる細緻な思索力と、鋭敏な感応性に対して払ふ租税である。高尚な教育の彼岸に起る反響の苦痛である。天爵的に貴族となつた報《むくひ》に受る不文の刑罰である。是等の犠牲に甘んずればこそ、自分は今の自分に為《な》れた。否、ある時は是等の犠牲そのものに、人生の意義をまともに認める場合さへある。門野《かどの》にはそんな事は丸で分らない。
「門野《かどの》さん、郵便は来《き》て居《ゐ》なかつたかね」
「郵便ですか。斯《か》うつと。来《き》てゐました。端書《はがき》と封書が。机の上に置きました。持つて来《き》ますか」
「いや、僕が彼方《あつち》へ行つても可《い》い」
 歯切《はぎ》れのわるい返事なので、門野《かどの》はもう立つて仕舞つた。さうして端書《はがき》と郵便を持つて来た。端書は、今日二時東京着、たゞちに表面へ投宿、取敢へず御報、明日《あす》午前|会《あ》ひたし、と薄墨《うすずみ》の走《はし》り書《がき》の簡単極るもので、表に裏神保町の宿屋《やどや》の名《な》と平岡常《ひらをかつね》次郎といふ差出人の姓名が、表と同じ乱暴さ加減で書いてある。
「もう来《き》たのか、昨日《きのふ》着《つ》いたんだな」と独《ひと》り言《ごと》の様に云ひながら、封書の方を取り上《あ》げると、是は親爺《おやぢ》の手蹟《て》である。二三日前帰つて来《き》た。急ぐ用事でもないが、色々話しがあるから、此手紙が着《つ》いたら来てくれろと書《か》いて、あとには京都の花がまだ早かつたの、急行列車が一杯で窮屈だつた抔といふ閑文字が数行列ねてある。代助は封書を巻きながら、妙な顔をして、両方見較べてゐた。
「君、電話を掛けて呉れませんか。家《うち》へ」
「はあ、御宅《おたく》へ。何《なん》て掛《か》けます」
「今日《けふ》は約束があつて、待《ま》ち合《あは》せる人があるから上《あ》がれないつて。明日《あした》か明後日《あさつて》屹度伺ひますからつて」
「はあ。何方《どなた》に」
「親爺《おやぢ》が旅行から帰つて来《き》て、話があるから一寸《ちよつと》来《こ》いつて云ふんだが、――何《なに》親爺《おやぢ》を呼《よ》び出さないでも可《い》いから、誰《だれ》にでも左様《さう》云つて呉《く》れ給へ」
「はあ」
 門野《かどの》は無雑作に出《で》て行つた。代助は茶の間《ま》から、座敷を通《とほ》つて書斎へ帰つた。見ると、奇麗に掃除《さうじ》が出来てゐる。落椿《おちつばき》も何所《どこ》かへ掃《は》き出されて仕舞つた。代助は花瓶《くわへい》の右手《みぎて》にある組《く》み重《かさ》ねの書棚《しよだな》の前《まへ》へ行つて、上《うへ》に載せた重い写真帖を取り上《あ》げて、立《た》ちながら、金《きん》の留金《とめがね》を外《はづ》して、一枚二枚と繰《く》り始めたが、中頃迄|来《き》てぴたりと手《て》を留《と》めた。其所《そこ》には廿歳《はたち》位の女の半身《はんしん》がある。代助は眼《め》を俯せて凝《じつ》と女の顔を見詰めてゐた。

       二の一

 着物《きもの》でも着換《きか》へて、此方《こつち》から平岡《ひらをか》の宿《やど》を訪《たづ》ね様かと思つてゐる所へ、折よく先方《むかふ》から遣《や》つて来《き》た。車《くるま》をがら/\と門前迄乗り付けて、此所《こゝ》だ/\と梶《かぢ》棒を下《おろ》さした声は慥《たし》かに三年前|分《わか》れた時そつくりである。玄関で、取次《とりつぎ》の婆さんを捕《つら》まへて、宿《やど》へ蟇口《がまぐち》を忘れて来《き》たから、一寸《ちよつと》二十銭借してくれと云つた所などは、どうしても学校時代の平岡を思ひ出さずにはゐられない。代助は玄関迄|馳《か》け出して行つて、手を執《と》らぬ許りに旧友を座敷へ上《あ》げた。
「何《ど》うした。まあ緩《ゆつ》くりするが好《い》い」
「おや、椅子《いす》だね」と云ひながら平岡は安楽|椅子《いす》へ、どさりと身体《からだ》を投《な》げ掛《か》けた。十五貫目以上もあらうと云ふわが肉《にく》に、三文の価値《ねうち》を置いてゐない様な扱《あつ》かひ方《かた》に見えた。それから椅子《いす》の脊《せ》に坊主頭《ぼうずあたま》を靠《も》たして、一寸《ちよつと》部屋の中《うち》を見廻しながら、
「中々《なか/\》、好《い》い家《うち》だね。思つたより好《い》い」と賞《ほ》めた。代助は黙《だま》つて巻莨入《まきたばこいれ》の蓋《ふた》を開《あ》けた。
「それから、以後《いご》何《ど》うだい」
「何《ど》うの、斯《か》うのつて、――まあ色々《いろ/\》話すがね」
「もとは、よく手紙が来《き》たから、様子が分《わか》つたが、近頃ぢや些《ちつ》とも寄《よこ》さないもんだから」
「いや何所《どこ》も彼所《かしこ》も御無沙汰で」と平岡は突然《とつぜん》眼鏡《めがね》を外《はづ》して、脊広の胸から皺だらけの手帛《ハンケチ》を出して、眼《め》をぱち/\させながら拭《ふ》き始めた。学校時代からの近眼である。代助は凝《じつ》と其様子を眺めてゐた。
「僕より君はどうだい」と云ひながら、細《ほそ》い蔓《つる》を耳《みゝ》の後《うしろ》へ絡《から》みつけに、両手で持つて行つた。
「僕は相変らずだよ」
「相変らずが一番|好《い》いな。あんまり相変るものだから」
 そこで平岡《ひらをか》は八《はち》の字《じ》を寄《よ》せて、庭の模様を眺め出《だ》したが、不意に語調を更《か》へて、
「やあ、桜《さくら》がある。今漸やく咲き掛けた所だね。余程気候が違ふ」と云つた。話の具合が何だか故《もと》の様にしんみりしない。代助も少し気の抜《ぬ》けた風に、
「向ふは大分|暖《あつた》かいだらう」と序《ついで》同然の挨拶をした。すると、今度は寧ろ法|外《ぐわい》に熱《ねつ》した具合で、
「うん、大分暖かい」と力の這入つた返事があつた。恰も自己の存在を急に意識して、はつと思つた調子である。代助は又平岡の顔を眺めた。平岡は巻莨《まきたばこ》に火を点《つ》けた。其時婆さんが漸く急須《きうす》に茶を注《い》れて持つて出た。今しがた鉄瓶に水《みづ》を射《さ》して仕舞つたので、煮立《にたて》るのに暇《ひま》が入つて、つい遅《おそ》くなつて済《す》みませんと言訳をしながら、洋卓《テーブル》の上《うへ》へ盆《ぼん》を載せた。二人《ふたり》は婆《ばあ》さんの喋舌《しやべつ》てる間《あひだ》、紫檀の盆《ぼん》を見《み》て黙《だま》つてゐた。婆さんは相手にされないので、独《ひと》りで愛想笑ひをして座敷を出《で》た。
「ありや何《なん》だい」
「婆《ばあ》さんさ。雇《やと》つたんだ。飯《めし》を食《く》はなくつちやならないから」
「御世辞が好《い》いね」
 代助は赤い唇《くちびる》の両|端《はし》を、少し弓《ゆみ》なりに下《した》の方へ彎《ま》げて蔑《さげす》む様に笑つた。
「今迄斯んな所へ奉公した事がないんだから仕方がない」
「君の家《うち》から誰《だれ》か連《つ》れて呉れば好《い》いのに。大勢《おほぜい》ゐるだらう」
「みんな若《わか》いの許りでね」と代助は真面目《まじめ》に答へた。平岡は此時始めて声を出して笑つた。
「若《わか》けりや猶結構ぢやないか」
「兎に角|家《うち》の奴《やつ》は好《よ》くないよ」
「あの婆《ばあ》さんの外《ほか》に誰《だれ》かゐるのかい」
「書生が一人《ひとり》ゐる」
 門野《かどの》は何時《いつ》の間《ま》にか帰つて、台所《だいどころ》の方で婆さんと話《はなし》をしてゐた。
「それ限《ぎ》りかい」
「それ限《ぎ》りだ。何故《なぜ》」
「細君はまだ貰《もら》はないのかい」
 代助は心持赤い顔をしたが、すぐ尋常一般の極めて平凡な調子になつた。
「妻《さい》を貰つたら、君の所へ通知|位《ぐらゐ》する筈ぢやないか。夫《それ》よりか君の」と云ひかけて、ぴたりと已めた。

       二の二

 代助と平岡とは中学時代からの知り合で、殊に学校を卒業して後《のち》、一年間といふものは、殆んど兄弟の様に親しく往来した。其時分
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