されてゐる細君の事を考へた。
 代助は此細君を捕《つら》まへて、かつて奥さんと云つた事がない。何時《いつ》でも三千代《みちよ》さん/\と、結婚しない前の通りに、本名《ほんみよう》を呼《よ》んでゐる。代助は平岡に分《わか》れてから又引き返して、旅宿《りよしゆく》へ行つて、三千代《みちよ》さんに逢つて話《はな》しをしやうかと思つた。けれども、何《なん》だか行《ゆ》けなかつた。足《あし》を停《と》めて思案《しあん》しても、今の自分には、行くのが悪《わる》いと云ふ意味はちつとも見出《みいだ》せなかつた。けれども、気《き》が咎《とが》めて行《い》かれなかつた。勇気を出《だ》せば行《い》かれると思つた。たゞ代助には是丈の勇気を出すのが苦痛であつた。夫《それ》で家《うち》へ帰つた。其代り帰つても、落《お》ち付《つ》かない様な、物足《ものた》らない様な、妙な心持がした。ので、又|外《そと》へ出《で》て酒を飲《の》んだ。代助は酒をいくらでも飲む男である。ことに其晩はしたゝかに飲んだ。
「あの時は、何《ど》うかしてゐたんだ」と代助は椅子に倚《よ》りながら、比較的|冷《ひや》やかな自己で、自己の影を批判した
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