、慾得はなかつた、利害はなかつた、自己を圧迫する道徳はなかつた。雲の様な自由と、水の如き自然とがあつた。さうして凡てが幸《ブリス》であつた。だから凡てが美《うつく》しかつた。
やがて、夢《ゆめ》から覚《さ》めた。此|一刻《いつこく》の幸《ブリス》から生ずる永久の苦痛が其時卒然として、代助の頭《あたま》を冒《おか》して来《き》た。彼《かれ》の唇《くちびる》は色《いろ》を失《うしな》つた。彼《かれ》は黙然として、我《われ》と吾《わが》手を眺《なが》めた。爪《つめ》の甲の底《そこ》に流れてゐる血潮《ちしほ》が、ぶる/\顫《ふる》へる様に思はれた。彼《かれ》は立《た》つて百合《ゆり》の花《はな》の傍《そば》へ行つた。唇《くちびる》が瓣《はなびら》に着《つ》く程近く寄《よ》つて、強い香《か》を眼《め》の眩《ま》う迄《まで》嗅《か》いだ。彼《かれ》は花《はな》から花《はな》へ唇《くちびる》を移《うつ》して、甘《あま》い香《か》に咽《む》せて、失心して室《へや》の中《なか》に倒れたかつた。彼《かれ》はやがて、腕を組《く》んで、書斎と座敷《ざしき》の間《あひだ》を往《い》つたり来《き》たりした。彼《
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