る》しくなつて困つた。――
「けれども、慣《な》れつこに為《なつ》てるんだから、驚《おど》ろきやしません」と云つて、代助を見て淋《さみ》しい笑《わら》ひ方《かた》をした。
「心臓の方《ほう》は、まだ悉皆《すつかり》善《よ》くないんですか」と代助は気の毒さうな顔《かほ》で尋ねた。
「悉皆《すつかり》善《よ》くなるなんて、生涯駄目ですわ」
 意味の絶望な程、三千代の言葉は沈《しづ》んでゐなかつた。繊《ほそ》い指《ゆび》を反《そら》して穿《は》めてゐる指環《ゆびわ》を見た。それから、手帛《ハンケチ》を丸めて、又|袂《たもと》へ入れた。代助は眼《め》を俯《ふ》せた女の額《ひたひ》の、髪《かみ》に連《つら》なる所を眺めてゐた。
 すると、三千代は急に思ひ出《だ》した様に、此間《このあひだ》の小切手《こぎつて》の礼を述《の》べ出《だ》した。其時《そのとき》何だか少し頬《ほゝ》を赤くした様に思はれた。視感の鋭敏な代助にはそれが善《よ》く分《わか》つた。彼はそれを、貸借《たいしやく》に関係した羞恥《しうち》の血潮《ちしほ》とのみ解釈《かいしやく》した。そこで話《はなし》をすぐ他所《よそ》へ外《そら》し
前へ 次へ
全490ページ中231ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング