屋の内《なか》から顔を出した細君は代助を見て、蒼白《あをじろ》い頬《ほゝ》をぽつと赤くした。代助は何となく席に就《つ》き悪《にく》くなつた。まあ這入れと申し訳に云ふのを聞き流して、いや別段用ぢやない。何《ど》うしてゐるかと思つて一寸《ちよつと》来《き》て見た丈だ。出掛《でか》けるなら一所に出様《でやう》と、此方《こつち》から誘ふ様にして表《おもて》へ出《で》て仕舞つた。
其時平岡は、早く家《いへ》を探《さが》して落ち付きたいが、あんまり忙《いそが》しいんで、何《ど》うする事も出来ない、たまに宿《やど》のものが教へてくれるかと思ふと、まだ人が立ち退《の》かなかつたり、あるひは今|壁《かべ》を塗《ぬ》つてる最中《さいちう》だつたりする。などと、電車へ乗つて分れる迄諸事苦情づくめであつた。代助も気の毒になつて、そんなら家《いへ》は、宅《うち》の書生に探《さが》させやう。なに不景気だから、大分|空《あ》いてるのがある筈だ。と請合《うけあ》つて帰つた。
夫《それ》から約束通り門野《かどの》を探《さが》しに出《だ》した。出《だ》すや否や、門野はすぐ恰好《かつこう》なのを見付けて来《き》た。門野《かどの》に案内をさせて平岡夫婦に見せると、大抵|可《よ》からうと云ふ事で分《わか》れたさうだが、門野《かどの》は家主《いへぬし》の方へ責任もあるし、又|其所《そこ》が気に入らなければ外《ほか》を探《さが》す考もあるからと云ふので、借りるか借りないか判然《はつきり》した所を、もう一遍確かめさしたのである。
「君、家主《いへぬし》の方へは借《か》りるつて、断わつて来《き》たんだらうね」
「えゝ、帰りに寄《よ》つて、明日《あした》引越すからつて、云つて来《き》ました」
四の三
代助は椅子に腰《こし》を掛《か》けた儘、新《あた》らしく二度の世帯《しよたい》を東京に持つ、夫婦の未来を考へた。平岡は三年前新橋で分れた時とは、もう大分変つてゐる。彼《かれ》の経歴は処世の階子段《はしごだん》を一二段で踏《ふ》み外《はづ》したと同じ事である。まだ高い所へ上《のぼ》つてゐなかつた丈が、幸《さひはひ》と云へば云ふ様なものゝ、世間の眼《め》に映ずる程、身体《からだ》に打撲《だぼく》を受けてゐないのみで、其実精神状態には既に狂ひが出来てゐる。始めて逢つた時、代助はすぐ左様《さう》思つた。けれども、三年間に起つた自分の方の変化を打算《ださん》して見て、或は此方《こつち》の心《こゝろ》が向《むかふ》に反響を起したのではなからうかと訂正した。が、其後《そのご》平岡の旅宿へ尋ねて行つて、座敷へも這入らないで一所に外《そと》へ出《で》た時の、容子から言語動作を眼の前に浮べて見ると、どうしても又最初の判断に戻《もど》らなければならなくなつた。平岡は其時|顔《かほ》の中心《ちうしん》に一種の神経を寄せてゐた。風《かぜ》が吹《ふ》いても、砂《すな》が飛《と》んでも、強い刺激を受けさうな眉《まゆ》と眉《まゆ》の継目《つぎめ》を、憚《はゞか》らず、ぴくつかせてゐた。さうして、口《くち》にする事《こと》が、内容の如何に関はらず、如何にも急《せわ》しなく、且つ切《せつ》なさうに、代助の耳《みゝ》に響《ひゞ》いた。代助には、平岡の凡てが、恰も肺の強くない人の、重苦《おもくる》しい葛湯《くづゆ》の中《なか》を片息《かたいき》で泳《およ》いでゐる様に取れた。
「あんなに、焦《あせ》つて」と、電車へ乗つて飛んで行く平岡の姿《すがた》を見送つた代助は、口《くち》の内《うち》でつぶやいだ。さうして旅宿に残されてゐる細君の事を考へた。
代助は此細君を捕《つら》まへて、かつて奥さんと云つた事がない。何時《いつ》でも三千代《みちよ》さん/\と、結婚しない前の通りに、本名《ほんみよう》を呼《よ》んでゐる。代助は平岡に分《わか》れてから又引き返して、旅宿《りよしゆく》へ行つて、三千代《みちよ》さんに逢つて話《はな》しをしやうかと思つた。けれども、何《なん》だか行《ゆ》けなかつた。足《あし》を停《と》めて思案《しあん》しても、今の自分には、行くのが悪《わる》いと云ふ意味はちつとも見出《みいだ》せなかつた。けれども、気《き》が咎《とが》めて行《い》かれなかつた。勇気を出《だ》せば行《い》かれると思つた。たゞ代助には是丈の勇気を出すのが苦痛であつた。夫《それ》で家《うち》へ帰つた。其代り帰つても、落《お》ち付《つ》かない様な、物足《ものた》らない様な、妙な心持がした。ので、又|外《そと》へ出《で》て酒を飲《の》んだ。代助は酒をいくらでも飲む男である。ことに其晩はしたゝかに飲んだ。
「あの時は、何《ど》うかしてゐたんだ」と代助は椅子に倚《よ》りながら、比較的|冷《ひや》やかな自己で、自己の影を批判した
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