差《さ》した儘、旅宿《やど》の戸口《とぐち》迄|来《き》て、格子《こうし》を開《あ》けて中《なか》へ這入《はいつ》た。さうして格子をぴしやりと締《し》めて、中《うち》から、長井|直記《なほき》は拙者だ。何御用か。と聞いたさうである。
代助は斯んな話を聞く度《たび》に、勇《いさ》ましいと云ふ気持よりも、まづ怖い方が先に立《た》つ。度胸を買つてやる前に、腥《なま》ぐさい臭《にほひ》が鼻柱《はなばしら》を抜ける様に応《こた》へる。
もし死が可能であるならば、それは発作《ほつさ》の絶高頂に達した一瞬にあるだらうとは、代助のかねて期待する所である。所が、彼は決して発作《ほつさ》性の男でない。手も顫《ふる》へる、足も顫《ふる》へる。声の顫《ふる》へる事や、心臓の飛び上《あ》がる事は始終ある。けれども、激する事は近来殆んどない。激すると云ふ心的状態は、死に近づき得る自然の階段で、激するたびに死《し》に易くなるのは眼《め》に見えてゐるから、時には好奇心で、せめて、其近所迄押し寄せて見《み》たいと思ふ事もあるが、全く駄目である。代助は此頃の自己を解剖するたびに、五六年前の自己と、丸で違《ちが》つてゐるのに驚ろかずにはゐられない。
四の二
代助は机の上の書物を伏せると立ち上《あ》がつた。縁側《えんがは》の硝子戸《がらすど》を細目《ほそめ》に開《あ》けた間《あひだ》から暖《あたゝ》かい陽気な風が吹き込んで来《き》た。さうして鉢植のアマランスの赤い瓣《はなびら》をふら/\と揺《うご》かした。日《ひ》は大きな花の上《うへ》に落ちてゐる。代助は曲《こゞ》んで、花の中《なか》を覗《のぞ》き込んだ。やがて、ひよろ長い雄|蕊《ずゐ》の頂《いたゞ》きから、花粉《くわふん》を取つて、雌蕊《しずゐ》の先《さき》へ持つて来《き》て、丹念《たんねん》に塗《ぬ》り付《つ》けた。
「蟻《あり》でも付《つ》きましたか」と門野《かどの》が玄関の方から出《で》て来《き》た。袴《はかま》を穿《は》いてゐる。代助は曲《こゞ》んだ儘顔を上《あ》げた。
「もう行《い》つて来《き》たの」
「えゝ、行《い》つて来《き》ました。何《なん》ださうです。明日《あした》御引移《おひきうつ》りになるさうです。今日《けふ》是から上《あ》がらうと思つてた所だと仰《おつ》しやいました」
「誰《だれ》が? 平岡が?」
「えゝ。――どうも何《なん》ですな。大分御|忙《いそ》がしい様ですな。先生た余つ程|違《ちが》つてますね。――蟻なら種油《たねあぶら》を御注《おつ》ぎなさい。さうして苦《くる》しがつて、穴から出《で》て来《く》る所を一々《いち/\》殺すんです。何なら殺《ころ》しませうか」
「蟻ぢやない。斯《か》うして、天気の好《い》い時に、花粉を取《と》つて、雌蕊《しずゐ》へ塗り付《つ》けて置くと、今に実《み》が結《な》るんです。暇《ひま》だから植木屋から聞《き》いた通り、遣《や》つてる所だ」
「なある程。どうも重宝な世の中《なか》になりましたね。――然し盆栽は好《い》いもんだ。奇麗で、楽しみになつて」
代助は面倒臭《めんどくさ》いから返事をせずに黙つてゐた。やがて、
「悪戯《いたづら》も好加減《いゝかげん》に休《よ》すかな」と云ひながら立ち上《あ》がつて、縁側へ据付《すゑつけ》の、籐《と》の安楽|椅子《いす》に腰を掛けた。夫れ限《ぎ》りぽかんと何か考へ込んでゐる。門野《かどの》は詰《つま》らなくなつたから、自分の玄関|傍《わき》の三畳|敷《じき》へ引き取つた。障|子《じ》を開《あ》けて這入らうとすると、又縁側へ呼び返《かへ》された。
「平岡が今日《けふ》来《く》ると云つたつて」
「えゝ、来《く》る様な御話しでした」
「ぢや待《ま》つてゐやう」
代助は外出を見合せた。実は平岡の事が此間《このあひだ》から大分気に掛《かゝ》つてゐる。
平岡は此前《このぜん》、代助を訪問した当時、既《すで》に落ち付《つ》いてゐられない身分であつた。彼《かれ》自身の代助に語つた所によると、地位の心当りが二三ヶ所あるから、差し当り其方面へ運動して見る積りなんださうだが、其二三ヶ所が今どうなつてゐるか、代助は殆んど知らない。代助の方から神保町の宿《やど》を訪《たづ》ねた事が二返あるが、一度は留守であつた。一度は居つたには居《お》つた。が、洋服を着《き》た儘、部屋《へや》の敷居《しきゐ》の上に立つて、何《なに》か急《せわ》しい調子で、細君を極《き》め付《つ》けてゐた。――案内なしに廊下を伝《つた》つて、平岡の部屋の横《よこ》へ出《で》た代助には、突然ながら、たしかに左様《さう》取れた。其時平岡は一寸《ちよつと》振り向《む》いて、やあ君かと云つた。其顔にも容子にも、少しも快《こゝろ》よさゝうな所は見えなかつた。部
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