ま》を持つて行《い》つて、乗《の》せて来《く》るんだよ」と念《ねん》を押《お》した。門野《かどの》は雨《あめ》の中《なか》を乗《の》りつけの帳場迄|出《で》て行《い》つた。
 代助は、百合《ゆり》の花《はな》を眺《なが》めながら、部屋を掩《おゝ》ふ強い香《か》の中《なか》に、残《のこ》りなく自己を放擲《ほうてき》した。彼は此《この》嗅覚の刺激のうちに、三千代《みちよ》の過去を分明《ふんみよう》に認めた。其《その》過去には離《はな》すべからざる、わが昔《むかし》の影《かげ》が烟《けむり》の如く這《は》ひ纏《まつ》はつてゐた。彼はしばらくして、
「今日《けふ》始《はじ》めて自然《しぜん》の昔《むかし》に帰るんだ」と胸《むね》の中《なか》で云つた。斯《か》う云ひ得た時、彼は年頃《としごろ》にない安慰を総身《そうしん》に覚えた。何故《なぜ》もつと早く帰《かへ》る事が出来なかつたのかと思つた。始《はじめ》から何故《なぜ》自然に抵抗したのかと思つた。彼は雨《あめ》の中《なか》に、百合《ゆり》の中《なか》に、再現《さいげん》の昔《むかし》のなかに、純一無雑に平和な生命を見出した。其生命の裏にも表にも、慾得はなかつた、利害はなかつた、自己を圧迫する道徳はなかつた。雲の様な自由と、水の如き自然とがあつた。さうして凡てが幸《ブリス》であつた。だから凡てが美《うつく》しかつた。
 やがて、夢《ゆめ》から覚《さ》めた。此|一刻《いつこく》の幸《ブリス》から生ずる永久の苦痛が其時卒然として、代助の頭《あたま》を冒《おか》して来《き》た。彼《かれ》の唇《くちびる》は色《いろ》を失《うしな》つた。彼《かれ》は黙然として、我《われ》と吾《わが》手を眺《なが》めた。爪《つめ》の甲の底《そこ》に流れてゐる血潮《ちしほ》が、ぶる/\顫《ふる》へる様に思はれた。彼《かれ》は立《た》つて百合《ゆり》の花《はな》の傍《そば》へ行つた。唇《くちびる》が瓣《はなびら》に着《つ》く程近く寄《よ》つて、強い香《か》を眼《め》の眩《ま》う迄《まで》嗅《か》いだ。彼《かれ》は花《はな》から花《はな》へ唇《くちびる》を移《うつ》して、甘《あま》い香《か》に咽《む》せて、失心して室《へや》の中《なか》に倒れたかつた。彼《かれ》はやがて、腕を組《く》んで、書斎と座敷《ざしき》の間《あひだ》を往《い》つたり来《き》たりした。彼《かれ》の胸は始終鼓動を感じてゐた。彼《かれ》は時々《とき/″\》椅子の角《かど》や、洋卓《デスク》の前へ来《き》て留《と》まつた。それから又|歩《ある》き出《だ》した。彼《かれ》の心《こゝろ》の動揺は、彼《かれ》をして長く一所《いつしよ》に留《とゞ》まる事を許さなかつた。同時に彼は何物をか考へる為《ため》に、無暗《むやみ》な所《ところ》に立ち留《ど》まらざるを得なかつた。
 其内《そのうち》に時は段々|移《うつ》つた。代助は断えず置時計の針《はり》を見た。又|覗《のぞ》く様に、軒《のき》から外《そと》の雨《あめ》を見た。雨《あめ》は依然として、空《そら》から真直《まつすぐ》に降《ふ》つてゐた。空《そら》は前《まへ》よりも稍|暗《くら》くなつた。重《かさ》なる雲《くも》が一《ひと》つ所《ところ》で渦《うづ》を捲《ま》いて、次第《しだい》に地面の上《うへ》へ押し寄《よ》せるかと怪しまれた。其時|雨《あめ》に光《ひか》る車《くるま》を門《もん》から中《うち》へ引き込んだ。輪《わ》の音《おと》が、雨《あめ》を圧《あつ》して代助の耳《みゝ》に響いた時、彼は蒼白《あをしろ》い頬《ほゝ》に微笑を洩《もら》しながら、右《みぎ》の手を胸《むね》に当《あ》てた。

       十四の八

 三千代は玄関から、門野《かどの》に連《つ》れられて、廊下|伝《づた》ひに這入つて来《き》た。銘仙《めいせん》の紺絣《こんがすり》に、唐草《からくさ》模様の一重《ひとえ》帯を締《し》めて、此前とは丸で違《ちが》つた服装《なり》をしてゐるので、一目《ひとめ》見た代助には、新《あた》らしい感《かん》じがした。色《いろ》は不断の通り好《よ》くなかつたが、座敷の入口《いりぐち》で、代助と顔《かほ》を合《あは》せた時、眼《め》も眉《まゆ》も口《くち》もぴたりと活動を中止した様に固《かた》くなつた。敷居《しきゐ》に立《た》つてゐる間《あひだ》は、足《あし》も動《うご》けなくなつたとしか受取れなかつた。三千代は固《もと》より手紙を見た時から、何事をか予期して来《き》た。其予期のうちには恐れと、喜《よろこび》と、心配とがあつた。車から降《お》りて、座敷へ案内される迄、三千代の顔は其《その》予期の色をもつて漲《みなぎ》つてゐた。三千代の表情はそこで、はたと留《と》まつた。代助の様子は三千代に夫丈の打衝《シヨツク》を与
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