《かほ》を洗ひに行《い》つた。頭《あたま》を濡《ぬ》らして、椽側《えんがは》迄|帰《かへ》つて来《き》て、庭《には》を眺《なが》めてゐると、前《まへ》よりは気分が大分《だいぶ》晴々《せい/\》した。曇《くも》つた空《そら》を燕《つばめ》が二|羽《は》飛んでゐる様《さま》が大いに愉快に見えた。
 代助は此前《このまへ》平岡の訪問を受けてから、心待《こゝろまち》に、後《あと》から三千代の来《く》るのを待《ま》つてゐた。けれども、平岡《ひらをか》の言葉《ことば》は遂《つい》に事実として現《あらは》れて来《こ》なかつた。特別の事情があつて、三千代《みちよ》がわざと来《こ》ないのか、又は平岡が始《はじ》めから御世辞を使《つか》つたのか、疑問であるが、それがため、代助は心《こゝろ》の何処《どこ》かに空虚《くうきよ》を感じてゐた。然し彼《かれ》は此《この》空虚《くうきよ》な感じを、一つの経験として日常生活中に見出《みいだ》した迄で、其原因をどうするの、斯《か》うするのと云ふ気はあまりなかつた。此経験自身の奥《おく》を覗《のぞ》き込むと、それ以上に暗《くら》い影《かげ》がちらついてゐる様に思つたからである。
 それで彼《かれ》は進《すゝ》んで平岡を訪問するのを避《さ》けてゐた。散歩のとき彼《かれ》の足《あし》は多く江戸川の方角に向《む》いた。桜《さくら》の散《ち》る時分には、夕暮《ゆふぐれ》の風《かぜ》に吹《ふ》かれて、四《よつ》つの橋《はし》を此方《こちら》から向《むかふ》へ渡《わた》り、向《むかふ》から又|此方《こちら》へ渡《わた》り返して、長い堤《どて》を縫《ぬ》ふ様に歩《ある》いた。が其|桜《さくら》はとくに散《ちつ》て仕舞つて、今《いま》は緑蔭の時節になつた。代助は時々《とき/″\》橋《はし》の真中《まんなか》に立《た》つて、欄干に頬杖を突いて、茂《しげ》る葉《は》の中《なか》を、真直《まつすぐ》に通《とほ》つてゐる、水《みづ》の光《ひかり》を眺《なが》め尽《つく》して見《み》る。それから其|光《ひかり》の細《ほそ》くなつた先《さき》の方《ほう》に、高く聳える目白台の森《もり》を見上《みあげ》て見《み》る。けれども橋を向《むかふ》へ渡《わた》つて、小石川の坂《さか》を上《のぼ》る事はやめにして帰《かへ》る様になつた。ある時《とき》彼《かれ》は大曲《おほまがり》の所で、電車を下《おり》る平岡の影《かげ》を半町程手前から認《みと》めた。彼《かれ》は慥《たしか》に左様《さう》に違《ちがひ》ないと思つた。さうして、すぐ揚場《あげば》の方へ引《ひ》き返した。
 彼《かれ》は平岡の安否《あんぴ》を気《き》にかけてゐた。まだ坐食《ゐぐひ》の不安な境遇に居《お》るに違《ちがひ》ないとは思ふけれども、或は何《ど》の方面かへ、生活の行路《こうろ》を切り開く手掛りが出来《でき》たかも知れないとも想像して見た。けれども、それを確《たしか》める為《ため》に、平岡《ひらをか》の後《あと》を追ふ気にはなれなかつた。彼は平岡に面《めん》するときの、原因不明な一種の不快を予想する様になつた。と云つて、たゞ三千代の為《ため》にのみ、平岡の位地を心配する程、平岡を悪《にく》んでもゐなかつた。平岡の為《ため》にも、矢張り平岡の成功を祈る心はあつたのである。

       十の三

 斯んな風《ふう》に、代助は空虚なるわが心《こゝろ》の一角《いつかく》を抱《いだ》いて今日《こんにち》に至つた。いま先方《さきがた》門《かど》野を呼《よ》んで括《くゝ》り枕《まくら》を取《と》り寄《よ》せて、午寐《ひるね》を貪《むさ》ぼつた時は、あまりに溌溂たる宇宙の刺激に堪えなくなつた頭《あたま》を、出来《でき》るならば、蒼《あを》い色《いろ》の付《つ》いた、深《ふか》い水《みづ》の中《なか》に沈《しづ》めたい位に思つた。それ程|彼《かれ》は命《いのち》を鋭《するど》く感じ過《す》ぎた。従つて熱《あつ》い頭《あたま》を枕へ着《つ》けた時は、平岡も三千代も、彼に取つて殆んど存在してゐなかつた。彼は幸にして涼《すゞ》しい心持に寐《ね》た。けれども其|穏《おだ》やかな眠《ねむり》のうちに、誰《だれ》かすうと来《き》て、又すうと出《で》て行《い》つた様な心持がした。眼《め》を醒《さ》まして起《お》き上《あ》がつても其感じがまだ残つてゐて、頭《あたま》から拭《ぬぐ》ひ去る事が出来なかつた。それで門野を呼んで、寐《ね》てゐる間《あひだ》に誰《だれ》か来《き》はしないかと聞《き》いたのである。
 代助は両手を額《ひたひ》に当《あ》てゝ、高《たか》い空《そら》を面白さうに切《き》つて廻《まは》る燕《つばめ》の運動を椽側から眺めてゐたが、やがて、それが眼《め》ま苦《ぐる》しくなつたので、室《へや》の中《なか》
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