読んだ。それが一人《ひとり》や二人《ふたり》ではなかつた。他の新聞の記《しる》す所によれば、もし厳重に、それからそれへと、手を延ばしたら、東京は一時殆んど無警察の有様に陥《おちい》るかも知れないさうである。代助は其記事を読んだとき、たゞ苦笑した丈であつた。さうして、生活の大難に対抗せねばならぬ薄給の刑事が、悪い事をするのは、実際尤もだと思つた。
 代助が父に逢《あ》つて、結婚の相談を受けた時も、少し是と同様の気がした。が、これはたゞ父《ちゝ》に信仰がない所から起る、代助に取つて不幸な暗示に過ぎなかつた。さうして代助は自分の心のうちに、かゝる忌はしい暗示を受けたのを、不徳義とは感じ得なかつた。それが事実となつて眼前にあらはれても、矢張り父《ちゝ》を尤もだと肯《うけが》ふ積りだつたからである。
 代助は平岡に対しても同様の感じを抱いてゐた。然し平岡に取つては、それが当然な事であると許してゐた。たゞ平岡を好《す》く気になれない丈であつた。代助は兄を愛してゐた。けれども其兄に対しても矢張り信仰は有《も》ち得なかつた。嫂《あによめ》は実意のある女であつた。然し嫂《あによめ》は、直接生活の難関に当《あた》らない丈、それ丈|兄《あに》よりも近付き易《やす》いのだと考へてゐた。
 代助は平生から、此位に世の中《なか》を打遣《うちや》つてゐた。だから、非常な神経質であるにも拘はらず、不安の念に襲はれる事は少なかつた。さうして、自分でもそれを自覚してゐた。夫《それ》が、何《ど》う云ふ具合か急に揺《うご》き出《だ》した。代助は之を生理上の変化から起るのだらうと察《さつ》した。そこである人が北海道から採《と》つて来《き》たと云つて呉れたリリー、オフ、ゼ、※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]レーの束《たば》を解《と》いて、それを悉く水《みづ》の中《なか》に浸《ひた》して、其下《そのした》に寐《ね》たのである。

       十の二

 一時間《いちぢかん》の後《のち》、代助は大きな黒い眼《め》を開《あ》いた。其|眼《め》は、しばらくの間《あひだ》一つ所《ところ》に留《とゞ》まつて全く動《うご》かなかつた。手《て》も足《あし》も寐《ね》てゐた時の姿勢を少しも崩《くづ》さずに、丸で死人《しにん》のそれの様であつた。其時一匹の黒《くろ》い蟻《あり》が、ネルの襟《えり》を伝はつて、代助の咽喉《のど》に落《お》ちた。代助はすぐ右の手を動《うご》かして咽喉《のど》を抑《おさ》へた。さうして、額《ひたひ》に皺《しわ》を寄《よ》せて、指《ゆび》の股《また》に挟《はさ》んだ小《ちい》さな動物を、鼻《はな》の上《うへ》迄持つて来《き》て眺《なが》めた。其時蟻はもう死んでゐた。代助は人指指《ひとさしゆび》の先《さき》に着《つ》いた黒いものを、親指《おやゆび》の爪《つめ》で向《むかふ》へ弾《はぢ》いた。さうして起《お》き上《あ》がつた。
 膝《ひざ》の周囲《まはり》に、まだ三|四匹《しひき》這つてゐたのを、薄《うす》い象牙の紙小刀《ペーパーナイフ》で打ち殺した。それから手を叩《たゝ》いて人《ひと》を呼《よ》んだ。
「御目|醒《ざめ》ですか」と云つて、門野《かどの》が出《で》て来《き》た。
「御茶でも入《い》れて来《き》ませうか」と聞《き》いた。代助は、はだかつた胸《むね》を掻《か》き合《あは》せながら、
「君《きみ》、僕《ぼく》の寐てゐるうちに、誰《だれ》か来《き》やしなかつたかね」と、静《しづ》かな調子で尋ねた。
「えゝ、御出《おいで》でした。平岡の奥さんが。よく御|存《ぞん》じですな」と門野《かどの》は平気に答へた。
「何故《なぜ》起《おこ》さなかつたんだ」
「余《あん》まり能《よ》く御休《おやすみ》でしたからな」
「だつて御客《おきやく》なら仕方《しかた》がないぢやないか」
 代助の語勢は少し強くなつた。
「ですがな。平岡の奥さんの方《ほう》で、起《おこ》さない方が好《い》いつて、仰《おつ》しやつたもんですからな」
「それで、奥さんは帰つて仕舞つたのか」
「なに帰《かへ》つて仕舞つたと云ふ訳でもないんです。一寸《ちよつと》神楽坂《かぐらざか》に買物《かひもの》があるから、それを済《す》まして又|来《く》るからつて、云はれるもんですからな」
「ぢや又|来《く》るんだね」
「さうです。実《じつ》は御|目覚《めざめ》になる迄|待《ま》つてゐやうかつて、此座敷迄|上《あが》つて来《こ》られたんですが、先生の顔《かほ》を見て、あんまり善《よ》く寐《ね》てゐるもんだから、こいつは、容易に起《お》きさうもないと思つたんでせう」
「また出《で》て行《い》つたのかい」
「えゝ、まあ左《さ》うです」
 代助は笑ひながら、両手で寐起《ねおき》の顔《かほ》を撫《な》でた。さうして風呂場へ顔
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