|過《すぎ》迄代助は読書してゐた。が不図ダヌンチオと云ふ人が、自分の家《いへ》の部屋《へや》を、青色《あをいろ》と赤色《あかいろ》に分《わか》つて装飾してゐると云ふ話を思ひ出した。ダヌンチオの主意は、生活の二大情調の発現は、此二色に外《ほか》ならんと云ふ点に存するらしい。だから何でも興奮を要する部屋、即ち音楽室とか書斎とか云ふものは、成るべく赤く塗り立てる。又寝室とか、休息室とか、凡て精神の安静を要する所は青に近い色で飾り付をする。と云ふのが、心理学者の説を応用した、詩人の好奇心の満足と見える。
 代助は何故《なぜ》ダヌンチオの様な刺激を受け易い人に、奮興色とも見傚し得べき程強烈な赤《あか》の必要があるだらうと不思議に感じた。代助自身は稲荷の鳥居を見ても余り好《い》い心持はしない。出来得るならば、自分の頭《あたま》丈でも可《い》いから、緑《みどり》のなかに漂はして安らかに眠りたい位である。いつかの展覧会に青木と云ふ人が海の底に立つてゐる脊の高い女を画《か》いた。代助は多くの出品のうちで、あれ丈が好《い》い気持に出来てゐると思つた。つまり、自分もああ云ふ沈んだ落ち付いた情調に居りたかつたからである。
 代助は縁側へ出て、庭《には》から先《さき》にはびこる一面の青いものを見た。花はいつしか散つて、今は新芽《しんめ》若葉《わかば》の初期である。はなやかな緑《みどり》がぱつと顔《かほ》に吹き付けた様な心持ちがした。眼《め》を醒《さま》す刺激の底《そこ》に何所《どこ》か沈《しづ》んだ調子のあるのを嬉しく思ひながら、鳥打《とりうち》帽を被《かむ》つて、銘仙《めいせん》の不断|着《ぎ》の儘|門《もん》を出《で》た。
 平岡の新宅へ来て見ると、門《もん》が開《あ》いて、がらんとしてゐる丈で、荷物の着《つ》いた様子もなければ、平岡夫婦の来《き》てゐる気色も見えない。たゞ車夫体の男が一人《ひとり》縁側に腰を懸《か》けて烟草を呑んでゐた。聞いて見ると、先刻《さつき》一返|御出《おいで》になりましたが、此案排ぢや、どうせ午過《ひるすぎ》だらうつて又御帰りになりましたといふ答である。
「旦那と奥さんと一所に来《き》たかい」
「えゝ御一所です」
「さうして一所に帰つたかい」
「えゝ御一所に御帰りになりました」
「荷物もそのうち着《つ》くだらう。御苦労さま」と云つて、又通りへ出《で》た。
 神田
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