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「何《なに》か御用ですか」と門野《かどの》が又|出《で》て来《き》た。袴《はかま》を脱《ぬ》いで、足袋《たび》を脱《ぬ》いで、団子《だんご》の様な素足《すあし》を出《だ》してゐる。代助は黙《だま》つて門野《かどの》の顔《かほ》を見た。門野《かどの》も代助の顔を見て、一寸《ちよつと》の間《あひだ》突立《つゝた》つてゐた。
「おや、御呼《および》になつたんぢやないですか。おや、おや」と云つて引込んで行つた。代助は別段|可笑《おか》しいとも思はなかつた。
「小母《おば》さん、御呼《およ》びになつたんぢやないとさ。何《ど》うも変だと思つた。だから手も何も鳴らないつて云ふのに」といふ言葉が茶の間《ま》の方で聞《きこ》えた。夫から門野《かどの》と婆《ばあ》さんの笑ふ声がした。
其時、待ち設けてゐる御客が来《き》た。取次《とりつぎ》に出《で》た門野《かどの》は意外な顔をして這入つて来《き》た。さうして、其顔を代助の傍《そば》迄持つて来《き》て、先生、奥さんですと囁《さゝ》やく様に云つた。代助は黙《だま》つて椅子を離れて坐敷へ這入つた。
四の四
平岡の細君は、色の白い割に髪《かみ》の黒い、細面《ほそおもて》に眉毛《まみへ》の判然《はつきり》映《うつ》る女である。一寸《ちよつと》見ると何所《どこ》となく淋《さみ》しい感じの起る所が、古版《こはん》の浮世絵に似てゐる。帰京後は色光沢《いろつや》がことに可《よ》くないやうだ。始めて旅宿で逢つた時、代助は少《すこ》し驚ろいた位である。汽車で長く揺られた疲れが、まだ回復しないのかと思つて、聞いて見たら、左様《さう》ぢやない、始終|斯《か》うなんだと云はれた時は、気の毒になつた。
三千代《みちよ》は東京を出《で》て一年目に産をした。生れた子供はぢき死んだが、それから心臓を痛めたと見えて、兎角具合がわるい。始めのうちは、ただ、ぶら/\してゐたが、何《ど》うしても、はか/″\しく癒らないので、仕舞に医者に見て貰《もら》つたら、能《よ》くは分《わか》らないが、ことに依《よ》ると何とかいふ六づかしい名の心臓病かも知れないと云つた。もし左様《さう》だとすれば、心臓から動脈へ出《で》る血《ち》が、少しづゝ、後戻《あともど》りをする難症だから、根治は覚束ないと宣告されたので、平岡も驚ろいて、出来る丈養生に手を尽した所為《せゐ》か、
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