眼《め》を以て寺尾を迎へる訳には行かなかつた。
寺尾は、此間の翻訳を漸くの事で月末迄に片付けたら、本屋の方で、都合が悪いから秋迄出版を見合せると云ひ出したので、すぐ労力を金《かね》に換算する事が出来ずに、困つた結果|遣《や》つて来《き》たのであつた。では書肆と契約なしに手を着《つ》けたのかと聞《き》くと、全く左様《さう》でもないらしい。と云つて、本屋の方が丸で約束を無|視《し》した様にも云はない。要するに曖昧であつた。たゞ困つてゐる事丈は事実らしかつた。けれども斯《か》う云ふ手違《てちがひ》に慣れ抜《ぬ》いた寺尾は、別に徳義問題として誰にも不満を抱《いだ》いてゐる様には見えなかつた。失敬だとか怪《け》しからんと云ふのは、たゞ口《くち》の先許《さきばかり》で、腹《はら》の中《なか》の屈托は、全然|飯《めし》と肉《にく》に集注してゐるらしかつた。
代助は気の毒になつて、当座の経済に幾分の補助を与へた。寺尾は感謝の意を表して帰つた。帰る前に、実は本屋からも少しは前借はしたんだが、それは疾《とく》の昔《むかし》に使《つか》つて仕舞つたんだと自白した。寺尾の帰つたあとで、代助はあゝ云ふのも一種の人格だと思つた。たゞ斯《か》う楽に活計《くらし》てゐたつて決して為《な》れる訳のものぢやない。今の所謂文壇が、あゝ云ふ人格を必要と認めて、自然に産み出した程、今の文壇は悲しむべき状況の下《もと》に呻吟してゐるんではなからうかと考へて茫乎《ぼんやり》した。
代助は其晩《そのばん》自分の前途をひどく気に掛けた。もし父《ちゝ》から物質的に供給の道を鎖《とざ》された時、彼は果して第二の寺尾になり得る決心があるだらうかを疑《うたぐ》つた。もし筆を執つて寺尾の真似さへ出来なかつたなら、彼は当然餓死すべきである。もし筆を執《と》らなかつたら、彼は何をする能力があるだらう。
彼は眼《め》を開《あ》けて時々《とき/″\》蚊帳《かや》の外《そと》に置《お》いてある洋燈《ランプ》を眺めた。夜中《よなか》に燐寸《マツチ》を擦《す》つて烟草《たばこ》を吹《ふ》かした。寐返りを何遍も打つた。固より寐《ね》苦しい程暑い晩ではなかつた。雨が又ざあ/\と降《ふ》つた。代助は此雨の音《おと》で寐《ね》付くかと思ふと、又雨の音《おと》で不意に眼《め》を覚《さ》ました。夜は半醒半睡のうちに明け離れた。
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