》ぞいた。座敷へ来《き》て兄《あに》を探《さが》したが見えなかつた。嫂《あによめ》はと尋ねたら、客間《きやくま》だと下女が教へたので、行《い》つて戸を明《あ》けて見ると、縫子のピヤノの先生が来《き》てゐた。代助は先生に一寸《ちよつと》挨拶をして、梅子《うめこ》を戸口《とぐち》迄|呼《よ》び出《だ》した。
「あなたは僕《ぼく》の事を何か御父《おとう》さんに讒訴しやしないか」
 梅子はハヽヽヽと笑つた。さうして、
「まあ御這入んなさいよ。丁度|好《い》い所だから」と云つて、代助を楽器の傍《そば》迄引張つて行《い》つた。

       十の一

 蟻《あり》の座敷《ざしき》へ上《あ》がる時候になつた。代助は大きな鉢《はち》へ水を張《は》つて、其|中《なか》に真白《まつしろ》なリリー、オフ、ゼ、※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]レーを茎《くき》ごと漬《つ》けた。簇《むら》がる細《こま》かい花が、濃《こ》い模様の縁《ふち》を隠《かく》した。鉢《はち》を動《うご》かすと、花《はな》が零《こぼ》れる。代助はそれを大《おほ》きな字引《じびき》の上《うへ》に載《の》せた。さうして、其|傍《そば》に枕《まくら》を置《お》いて仰向《あほむ》けに倒れた。黒《くろ》い頭《あたま》が丁度|鉢《はち》の陰《かげ》になつて、花から出《で》る香《にほひ》が、好《い》い具合に鼻《はな》に通《かよ》つた。代助は其香《そのにほひ》を嗅《か》ぎながら仮寐《うたゝね》をした。
 代助は時々《とき/″\》尋常な外界から法外に痛烈な刺激を受ける。それが劇《はげ》しくなると、晴天から来《く》る日光《につこう》の反射にさへ堪へ難くなる事があつた。さう云ふ時には、成る可《べ》く世間《せけん》との交渉を稀薄にして、朝《あさ》でも午《ひる》でも構はず寐《ね》る工夫をした。其手段には、極めて淡《あわ》い、甘味《あまみ》の軽《かる》い、花《はな》の香《か》をよく用ひた。瞼《まぶた》を閉《と》ぢて、瞳《ひとみ》に落《お》ちる光線を謝絶して、静かに鼻《はな》の穴《あな》丈で呼吸《こきう》してゐるうちに、枕元《まくらもと》の花《はな》が、次第に夢《ゆめ》の方《ほう》へ、躁《さわ》ぐ意識を吹《ふ》いて行く。是が成功すると、代助の神経が生《うま》れ代《かは》つた様に落ち付いて、世間《せけん》との連絡《れんらく》が、前よりは比較的|
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