「向ふは大分|暖《あつた》かいだらう」と序《ついで》同然の挨拶をした。すると、今度は寧ろ法|外《ぐわい》に熱《ねつ》した具合で、
「うん、大分暖かい」と力の這入つた返事があつた。恰も自己の存在を急に意識して、はつと思つた調子である。代助は又平岡の顔を眺めた。平岡は巻莨《まきたばこ》に火を点《つ》けた。其時婆さんが漸く急須《きうす》に茶を注《い》れて持つて出た。今しがた鉄瓶に水《みづ》を射《さ》して仕舞つたので、煮立《にたて》るのに暇《ひま》が入つて、つい遅《おそ》くなつて済《す》みませんと言訳をしながら、洋卓《テーブル》の上《うへ》へ盆《ぼん》を載せた。二人《ふたり》は婆《ばあ》さんの喋舌《しやべつ》てる間《あひだ》、紫檀の盆《ぼん》を見《み》て黙《だま》つてゐた。婆さんは相手にされないので、独《ひと》りで愛想笑ひをして座敷を出《で》た。
「ありや何《なん》だい」
「婆《ばあ》さんさ。雇《やと》つたんだ。飯《めし》を食《く》はなくつちやならないから」
「御世辞が好《い》いね」
代助は赤い唇《くちびる》の両|端《はし》を、少し弓《ゆみ》なりに下《した》の方へ彎《ま》げて蔑《さげす》む様に笑つた。
「今迄斯んな所へ奉公した事がないんだから仕方がない」
「君の家《うち》から誰《だれ》か連《つ》れて呉れば好《い》いのに。大勢《おほぜい》ゐるだらう」
「みんな若《わか》いの許りでね」と代助は真面目《まじめ》に答へた。平岡は此時始めて声を出して笑つた。
「若《わか》けりや猶結構ぢやないか」
「兎に角|家《うち》の奴《やつ》は好《よ》くないよ」
「あの婆《ばあ》さんの外《ほか》に誰《だれ》かゐるのかい」
「書生が一人《ひとり》ゐる」
門野《かどの》は何時《いつ》の間《ま》にか帰つて、台所《だいどころ》の方で婆さんと話《はなし》をしてゐた。
「それ限《ぎ》りかい」
「それ限《ぎ》りだ。何故《なぜ》」
「細君はまだ貰《もら》はないのかい」
代助は心持赤い顔をしたが、すぐ尋常一般の極めて平凡な調子になつた。
「妻《さい》を貰つたら、君の所へ通知|位《ぐらゐ》する筈ぢやないか。夫《それ》よりか君の」と云ひかけて、ぴたりと已めた。
二の二
代助と平岡とは中学時代からの知り合で、殊に学校を卒業して後《のち》、一年間といふものは、殆んど兄弟の様に親しく往来した。其時分
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