過去を悉《ことごと》くあなたの前に物語らなくてはならないとなると、それはまた別問題になります」
「別問題とは思われません。先生の過去が生み出した思想だから、私は重きを置くのです。二つのものを切り離したら、私にはほとんど価値のないものになります。私は魂の吹き込まれていない人形を与えられただけで、満足はできないのです」
 先生はあきれたといった風《ふう》に、私の顔を見た。巻烟草《まきタバコ》を持っていたその手が少し顫《ふる》えた。
「あなたは大胆だ」
「ただ真面目《まじめ》なんです。真面目に人生から教訓を受けたいのです」
「私の過去を訐《あば》いてもですか」
 訐くという言葉が、突然恐ろしい響《ひび》きをもって、私の耳を打った。私は今私の前に坐《すわ》っているのが、一人の罪人《ざいにん》であって、不断から尊敬している先生でないような気がした。先生の顔は蒼《あお》かった。
「あなたは本当に真面目なんですか」と先生が念を押した。「私は過去の因果《いんが》で、人を疑《うたぐ》りつけている。だから実はあなたも疑っている。しかしどうもあなただけは疑りたくない。あなたは疑るにはあまりに単純すぎるようだ
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