。その時私は先生の顔を見て、先生ははたして心のどこで、一般の人間を憎んでいるのだろうかと疑《うたぐ》った。その眼、その口、どこにも厭世的《えんせいてき》の影は射《さ》していなかった。
 私は思想上の問題について、大いなる利益を先生から受けた事を自白する。しかし同じ問題について、利益を受けようとしても、受けられない事が間々《まま》あったといわなければならない。先生の談話は時として不得要領《ふとくようりょう》に終った。その日二人の間に起った郊外の談話も、この不得要領の一例として私の胸の裏《うち》に残った。
 無遠慮な私は、ある時ついにそれを先生の前に打ち明けた。先生は笑っていた。私はこういった。
「頭が鈍くて要領を得ないのは構いませんが、ちゃんと解《わか》ってるくせに、はっきりいってくれないのは困ります」
「私は何にも隠してやしません」
「隠していらっしゃいます」
「あなたは私の思想とか意見とかいうものと、私の過去とを、ごちゃごちゃに考えているんじゃありませんか。私は貧弱な思想家ですけれども、自分の頭で纏《まと》め上げた考えをむやみに人に隠しやしません。隠す必要がないんだから。けれども私の
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