を失って来た。眼の前にある樹《き》は大概|楓《かえで》であったが、その枝に滴《したた》るように吹いた軽い緑の若葉が、段々暗くなって行くように思われた。遠い往来を荷車を引いて行く響きがごろごろと聞こえた。私はそれを村の男が植木か何かを載せて縁日《えんにち》へでも出掛けるものと想像した。先生はその音を聞くと、急に瞑想《めいそう》から呼息《いき》を吹き返した人のように立ち上がった。
「もう、そろそろ帰りましょう。大分《だいぶ》日が永くなったようだが、やっぱりこう安閑としているうちには、いつの間にか暮れて行くんだね」
 先生の背中には、さっき縁台の上に仰向《あおむ》きに寝た痕《あと》がいっぱい着いていた。私は両手でそれを払い落した。
「ありがとう。脂《やに》がこびり着いてやしませんか」
「綺麗《きれい》に落ちました」
「この羽織はつい此間《こないだ》拵《こしら》えたばかりなんだよ。だからむやみに汚して帰ると、妻《さい》に叱《しか》られるからね。有難う」
 二人はまただらだら坂《ざか》の中途にある家《うち》の前へ来た。はいる時には誰もいる気色《けしき》の見えなかった縁《えん》に、お上《かみ》さん
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