はがらんとして人の影も見えなかった。ただ軒先《のきさき》に据えた大きな鉢の中に飼ってある金魚が動いていた。
「静かだね。断わらずにはいっても構わないだろうか」
「構わないでしょう」
二人はまた奥の方へ進んだ。しかしそこにも人影は見えなかった。躑躅《つつじ》が燃えるように咲き乱れていた。先生はそのうちで樺色《かばいろ》の丈《たけ》の高いのを指して、「これは霧島《きりしま》でしょう」といった。
芍薬《しゃくやく》も十坪《とつぼ》あまり一面に植え付けられていたが、まだ季節が来ないので花を着けているのは一本もなかった。この芍薬|畠《ばたけ》の傍《そば》にある古びた縁台のようなものの上に先生は大の字なりに寝た。私はその余った端《はじ》の方に腰をおろして烟草《タバコ》を吹かした。先生は蒼《あお》い透《す》き徹《とお》るような空を見ていた。私は私を包む若葉の色に心を奪われていた。その若葉の色をよくよく眺《なが》めると、一々違っていた。同じ楓《かえで》の樹《き》でも同じ色を枝に着けているものは一つもなかった。細い杉苗の頂《いただき》に投げ被《かぶ》せてあった先生の帽子が風に吹かれて落ちた。
前へ
次へ
全371ページ中83ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング