受理してもらったといった。私は不安を感ずると共に度胸を据《す》えた。毎日机の前で精根のつづく限り働いた。でなければ、薄暗い書庫にはいって、高い本棚のあちらこちらを見廻《みまわ》した。私の眼は好事家《こうずか》が骨董《こっとう》でも掘り出す時のように背表紙の金文字をあさった。
 梅が咲くにつけて寒い風は段々|向《むき》を南へ更《か》えて行った。それが一仕切《ひとしきり》経《た》つと、桜の噂《うわさ》がちらほら私の耳に聞こえ出した。それでも私は馬車馬のように正面ばかり見て、論文に鞭《むち》うたれた。私はついに四月の下旬が来て、やっと予定通りのものを書き上げるまで、先生の敷居を跨《また》がなかった。

     二十六

 私《わたくし》の自由になったのは、八重桜《やえざくら》の散った枝にいつしか青い葉が霞《かす》むように伸び始める初夏の季節であった。私は籠《かご》を抜け出した小鳥の心をもって、広い天地を一目《ひとめ》に見渡しながら、自由に羽搏《はばた》きをした。私はすぐ先生の家《うち》へ行った。枳殻《からたち》の垣が黒ずんだ枝の上に、萌《もえ》るような芽を吹いていたり、柘榴《ざくろ》の枯れ
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