んに対していた。私がその気で話しているうちに、奥さんの様子が次第に変って来た。奥さんは私の頭脳に訴える代りに、私の心臓《ハート》を動かし始めた。自分と夫の間には何の蟠《わだか》まりもない、またないはずであるのに、やはり何かある。それだのに眼を開《あ》けて見極《みきわ》めようとすると、やはり何《なん》にもない。奥さんの苦にする要点はここにあった。
 奥さんは最初世の中を見る先生の眼が厭世的《えんせいてき》だから、その結果として自分も嫌われているのだと断言した。そう断言しておきながら、ちっともそこに落ち付いていられなかった。底を割ると、かえってその逆を考えていた。先生は自分を嫌う結果、とうとう世の中まで厭《いや》になったのだろうと推測していた。けれどもどう骨を折っても、その推測を突き留めて事実とする事ができなかった。先生の態度はどこまでも良人《おっと》らしかった。親切で優しかった。疑いの塊《かたま》りをその日その日の情合《じょうあい》で包んで、そっと胸の奥にしまっておいた奥さんは、その晩その包みの中を私の前で開けて見せた。
「あなたどう思って?」と聞いた。「私からああなったのか、それともあ
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