十八

 私《わたくし》は奥さんの理解力に感心した。奥さんの態度が旧式の日本の女らしくないところも私の注意に一種の刺戟《しげき》を与えた。それで奥さんはその頃《ころ》流行《はや》り始めたいわゆる新しい言葉などはほとんど使わなかった。
 私は女というものに深い交際《つきあい》をした経験のない迂闊《うかつ》な青年であった。男としての私は、異性に対する本能から、憧憬《どうけい》の目的物として常に女を夢みていた。けれどもそれは懐かしい春の雲を眺《なが》めるような心持で、ただ漠然《ばくぜん》と夢みていたに過ぎなかった。だから実際の女の前へ出ると、私の感情が突然変る事が時々あった。私は自分の前に現われた女のために引き付けられる代りに、その場に臨んでかえって変な反撥力《はんぱつりょく》を感じた。奥さんに対した私にはそんな気がまるで出なかった。普通|男女《なんにょ》の間に横たわる思想の不平均という考えもほとんど起らなかった。私は奥さんの女であるという事を忘れた。私はただ誠実なる先生の批評家および同情家として奥さんを眺めた。
「奥さん、私がこの前なぜ先生が世間的にもっと活動なさらないのだろうといって、あ
前へ 次へ
全371ページ中55ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング