て、ようやく外套《がいとう》の下に体《たい》の温味《あたたかみ》を感じ出したぐらいです。
急いだためでもありましょうが、我々は帰り路《みち》にはほとんど口を聞きませんでした。宅《うち》へ帰って食卓に向った時、奥さんはどうして遅くなったのかと尋ねました。私はKに誘われて上野《うえの》へ行ったと答えました。奥さんはこの寒いのにといって驚いた様子を見せました。お嬢さんは上野に何があったのかと聞きたがります。私は何もないが、ただ散歩したのだという返事だけしておきました。平生《へいぜい》から無口なKは、いつもよりなお黙っていました。奥さんが話しかけても、お嬢さんが笑っても、碌《ろく》な挨拶《あいさつ》はしませんでした。それから飯《めし》を呑《の》み込むように掻《か》き込んで、私がまだ席を立たないうちに、自分の室《へや》へ引き取りました。
四十三
「その頃《ころ》は覚醒《かくせい》とか新しい生活とかいう文字《もんじ》のまだない時分でした。しかしKが古い自分をさらりと投げ出して、一意《いちい》に新しい方角へ走り出さなかったのは、現代人の考えが彼に欠けていたからではないのです。彼には投
前へ
次へ
全371ページ中321ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング