いているらしかった。
「気の毒だね」といって、庭の方を向いた。
 私は自分の部屋にはいって、そこに放り出された行李を眺めた。行李はいつ持ち出しても差支《さしつか》えないように、堅く括《くく》られたままであった。私はぼんやりその前に立って、また縄を解こうかと考えた。
 私は坐ったまま腰を浮かした時の落ち付かない気分で、また三、四日を過ごした。すると父がまた卒倒した。医者は絶対に安臥《あんが》を命じた。
「どうしたものだろうね」と母が父に聞こえないような小さな声で私にいった。母の顔はいかにも心細そうであった。私は兄と妹《いもと》に電報を打つ用意をした。けれども寝ている父にはほとんど何の苦悶《くもん》もなかった。話をするところなどを見ると、風邪《かぜ》でも引いた時と全く同じ事であった。その上食欲は不断よりも進んだ。傍《はた》のものが、注意しても容易にいう事を聞かなかった。
「どうせ死ぬんだから、旨《うま》いものでも食って死ななくっちゃ」
 私には旨いものという父の言葉が滑稽《こっけい》にも悲酸《ひさん》にも聞こえた。父は旨いものを口に入れられる都には住んでいなかったのである。夜《よ》に入《い
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